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2014-10-19 18:56
警察に密着取材して、取り締まりの現場の様子を放送するドキュメントTV番組が流行っています。警察に限らず、現場の活躍の様子を実際に取材して報道する事はかなり意味のある事でしょう。大抵のフィクションよりは興味深く見ることが出来、実情も知ることが出来ます。
先日も、違法賭博場の現場を取り締まる警官の活躍がTV番組で流されていました。カフェバーとかナイトクラブのような場所で会員制の違法カジノが開かれていて、それを警察が内偵して違法行為の確証を得て突入する・・・と言った内容です。「正義の警察」が「悪の違法賭博場」を取り締まるドキュメントです。警官達もTV局の取材を受けて、張り切っていいところを見せているのかも知れません。
しかし、この手の番組には違和感があります。
違法賭博は確かにいいものではないでしょうが、違法賭博は儲かる者も損する者も原則としてその賭博に参加している内輪の人々の世界です。外の世界に迷惑がかかるわけではありません。(勿論、いかさまもあるでしょうし、間接的には回りにも迷惑をかけるでしょう・・・)競馬・競輪・競艇、パチンコ・・・合法賭博でも同じような事が毎日沢山行われています。(公営ギャンブルは儲けが社会事業に使われると言う点は違います・・。)
 この手の違法ギャンブルは、小悪の部類でしょう。あんな大げさに大勢で押し掛けて取り締まるのならもっと巨悪に立ち向かって欲しいと感じてしまいます。
世の中には、違法カジノよりも遥かに額も大きく、世の中に対する影響も非常に大きな・・・経済を大きく動かす・・・合法賭博場が存在します。それは金融市場です。現在の金融市場は完全に巨大なカジノです。違法賭博場との大きな違いは、合法である事です。そして、賭けの対象が、さいころやルーレットの目、トランプのカードでは無く、株であったり現実の企業であったり為替であったり農作物であったりするところです。即ち、彼等の賭けによって、企業で働く人々の給与に影響が出たり、為替相場が変動して農作物の値段が不安定になるのです。最近ではデフォルトなど国家を破算に導く事も珍しく無くなって来ています。そしてその不安定さを利用して、金融投資家が利益を得ているのです。隠れてこそこそ行われている違法賭博と違って、投資と言う名の巨額のギャンブルが堂々と合法的に行われているのです。そして、投資家達のギャンブルによって、ギャンブルをしない労働者が汗水流して得たお金をも搾取されているのです。これこそ悪質なギャンブルと言えましょう。この巨悪に比べれば、クラブでこそこそと行われている会員制違法賭博など「プチ悪」でしょう。

違法賭博場を摘発している警察官たち、TVの取材陣達はこの事を認識しているのでしょうか?彼が行っている取り締まりは、「プチ悪」の取り締まりであって、本当の巨悪には手を出しません。「プチ悪」を取り締まる事によって、庶民に法治国家はしっかりと機能していると思い込ませ、「悪」を懲らしめていると言う正義感をくすぐっているだけかも知れません。いわゆる庶民の「ガス抜き」に過ぎないのです。・・・それを知っていて、虚しく感じている警察官も中にはいるのでしょうか?
勿論、悪の芽は早い段階で摘み採っておく事も大切でしょうから、違法賭博場の取り締まりも否定はしませんが、警察は常に国家権力の犬であり、国家権力と癒着した巨大権力には立ち向かわないと言う事を再認識してしまいました。
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【2014/10/19 18:56】 | Economic Fascism トラックバック(0) |

カジノ
爽風上々
公認のカジノを作ろうかという時期に違法カジノは取り締まりというのは面白い話です。
もちろん、公認カジノができても違法カジノの取り締まりは続けるのが行政の考えでしょうが。

この前のビルトッテンさんの著書に書かれていた「カジノ経済」という言葉を思い出します。
世界経済全体を巻き込むような賭博行為にはひれ伏しておきながら、チンピラの寺銭稼ぎはゆるさないと言う、まさに小役人の政治そのものでしょう。

このようなくだらない政府でもそれを選んだのは選挙民なんですが。

起源
guyver1092
 元々の株式会社の起源は、外国貿易という博打でした。単独で船を出すと失敗した時のダメージが大きいので、危険を分散させるため出資を募り、公平に分配するために会計が発達したそうです。
 博打で始まった資本主義は、高度成長時代はまっとうなものと認識されていましたが、成長の限界に達しつつある現在は、最初期の博打に原点回帰しているのですね。
 時代劇では、博打で身を持ち崩すシーンがよく出てきますが、社会を牛耳っているのが博徒では、人間社会が身を持ち崩すのも時間の問題ですね。

Re:カジノ
雑草Z
>この前のビルトッテンさんの著書に書かれていた「カジノ経済」という言葉を思い出します。

そうですね。この記事を書いたとき、確かに最近読んだ何冊かの資本主義の酷さに関する本が頭にありました。勿論ビルトッテンさんの書物もその一つです。(2冊と言うべきでしょうか。)

>世界経済全体を巻き込むような賭博行為にはひれ伏しておきながら、チンピラの寺銭稼ぎはゆるさないと言う、まさに小役人の政治そのものでしょう。

世界全体を巻きこむカジノ経済は本当に酷いもので、マネーの暴力は、アジアやアフリカを食いものにして来ました。彼らがギャンブルで大儲けする為に、貧困が作り出され、環境が破壊されます。

>このようなくだらない政府でもそれを選んだのは選挙民

民主主義と言う名の大衆政治、金権政治ですね。これが民主主義政治と言う物の限界なのでしょうか?


Re:起源
雑草Z
>元々の株式会社の起源は、外国貿易という博打でした。単独で船を出すと失敗した時のダメージが大きいので、危険を分散させるため出資を募り、公平に分配するために会計が発達したそうです

言われてみれば確かに株の起源は大航海時代の冒険航海の費用でしたね。この頃から金持ちの余った金を増やす為に資本主義が発達したのでしたね。

>博打で始まった資本主義は、高度成長時代はまっとうなものと認識されていましたが、成長の限界に達しつつある現在は、最初期の博打に原点回帰している

なるほど、興味深い分析です。確かにそう思えます。

>社会を牛耳っているのが博徒では、人間社会が身を持ち崩すのも時間の問題ですね。

guyver1092 さん一流のブラックジョークならいいのですが、現実に博徒、それも不公正な賭けを仕組む博徒が牛耳っているのですから笑えない恐ろしい現実です。


真善美の探究
阿頼耶
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。




Re:真善美の探究
雑草Z
    阿頼耶さん

 初めまして・・・長いコメント有難う御座います。・・・と言いたいところですが、記事の内容と特に関係の無い長文のコピペのようですね。御自分の文章でしょうか?
 スパムと見なしてそのうち削除しようかと思います。悪しからず。

バブルというカジノ。
でなしNo.146
バブルについて研究した近代経済学者の第一人者はガルブレイスだったと思ったのですが、彼は興味深いことをいくつか提言しています。

すごいざっくり言えば注意すべきことは、

1.レバレッジをかける仕組み
2.懐疑の排斥

この2つの点です。

この2つが組み合わさるとバブルがおきます。

つまり、(株式)資本主義(1.)と人間の欲望の暴走(2.)が組み合わさるとバブルが生成されるわけです。


そしてバブルはいつかはじけます。そのはじけることについて考察すると、

A.バブルを仕掛けた者
B.バブルに乗る者
C.バブルを壊す者

としたとき、AとCは同一団体(人物)であることが多いのです。

そして大損をするのは逃げることを知らなかったBの人達です。

つまり民衆です。


カジノはシステムがバブル的で、ほぼ仕掛けた人が勝つ仕組みになっていますが、金融市場のバブルも同じだと言えると思います。

ただ、違うことは、カジノには負けない方法があります。

「賭けない(参加しない)」という方法です。


一方、資本主義(経済)はゲームに参加しなければ、生活を営めないのが切ないところです。
金融市場に直接は参加しなくても、物価などで余波がくるあたりはもらい事故のひどい感じとでも言いましょうか。。。

そして、これからもどこかで大小さまざまなバブルが発生し、判断も付かないような、将来の予測もできないような人がバブルの泡となっていくんだと思います。
(あと、参加してないつもりでも余波を受ける人。私もその1人。)

自分は今、どのバブルに参加しているのか?
そしてバブルはいつ潮目が変わり、はじける流れになるのか?

こういう視点もこれから一層大切になると思っています。

Re:バブルというカジノ。
雑草Z
興味深い提言の御紹介有難う御座います。ガルブレイスって知りませんでしたが、調べてみると、最初の脱物質主義者の一人と捉えられているのですね。その事からも彼の提言は読む価値があると感じます。でなしNo.146 さんは、彼のどんな著書を読まれたのですか?・・お薦めは?

>A.バブルを仕掛けた者 と C.バブルを壊す者
が同一団体(人物)であることが多い

と言うのも、興味深いですね。納得です。世界大恐慌も、金融財閥が仕掛けたと言う説もあり、一理ありますからね。
仕掛けるものと壊すものが同じと言う事は、完全に自分達の利益の為に社会を不安定にさせていますね。ある意味諸悪の根源と言う事も出来ますね。

>資本主義(経済)はゲームに参加しなければ、生活を営めないのが切ないところです。

そうですね。参加してない積りでも、間接的に参加させられています。本文にも書きましたが、彼等のギャンブルの対象が、企業であったり農業であったり為替相場であったりしているのですからどうしようもありません。違法カジノよりも、人間の生活に関わる部分を賭けの対象にしてはいけないと言う法律のほうが大切ですね。

>参加してないつもりでも余波を受ける人。私もその1人

私も、数年前から株やFXなどの投資は一切しない事にしていますが、それでも色々カジノ経済で搾取されている事実に気付くと、ふざけるなと言いたいですね。
 最近読んだ本に建築家のマルグリット・ケネディと言う人の事が描かれていました。彼女は「金融のシステムが大半の戦争の根であり、大半の対立、社会崩壊の根であるが、その事が伝えられていなません。その真の原因を理解したら、誰もがおかしくなる筈です。」と述べています。全くその通りだと思います。
現代社会は昔よりも住みやすくなったのではなく、とんでもないカジノ経済世界社会の真っただ中・・・そろそろ崩壊するところ・・・ですね。  
 

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カジノ
公認のカジノを作ろうかという時期に違法カジノは取り締まりというのは面白い話です。
もちろん、公認カジノができても違法カジノの取り締まりは続けるのが行政の考えでしょうが。

この前のビルトッテンさんの著書に書かれていた「カジノ経済」という言葉を思い出します。
世界経済全体を巻き込むような賭博行為にはひれ伏しておきながら、チンピラの寺銭稼ぎはゆるさないと言う、まさに小役人の政治そのものでしょう。

このようなくだらない政府でもそれを選んだのは選挙民なんですが。
2014/10/18(Sat) 09:04 | URL  | 爽風上々 #-[ 編集]
起源
 元々の株式会社の起源は、外国貿易という博打でした。単独で船を出すと失敗した時のダメージが大きいので、危険を分散させるため出資を募り、公平に分配するために会計が発達したそうです。
 博打で始まった資本主義は、高度成長時代はまっとうなものと認識されていましたが、成長の限界に達しつつある現在は、最初期の博打に原点回帰しているのですね。
 時代劇では、博打で身を持ち崩すシーンがよく出てきますが、社会を牛耳っているのが博徒では、人間社会が身を持ち崩すのも時間の問題ですね。
2014/10/18(Sat) 23:03 | URL  | guyver1092 #-[ 編集]
Re:カジノ
>この前のビルトッテンさんの著書に書かれていた「カジノ経済」という言葉を思い出します。

そうですね。この記事を書いたとき、確かに最近読んだ何冊かの資本主義の酷さに関する本が頭にありました。勿論ビルトッテンさんの書物もその一つです。(2冊と言うべきでしょうか。)

>世界経済全体を巻き込むような賭博行為にはひれ伏しておきながら、チンピラの寺銭稼ぎはゆるさないと言う、まさに小役人の政治そのものでしょう。

世界全体を巻きこむカジノ経済は本当に酷いもので、マネーの暴力は、アジアやアフリカを食いものにして来ました。彼らがギャンブルで大儲けする為に、貧困が作り出され、環境が破壊されます。

>このようなくだらない政府でもそれを選んだのは選挙民

民主主義と言う名の大衆政治、金権政治ですね。これが民主主義政治と言う物の限界なのでしょうか?
2014/10/19(Sun) 22:18 | URL  | 雑草Z #SAV8FvZY[ 編集]
Re:起源
>元々の株式会社の起源は、外国貿易という博打でした。単独で船を出すと失敗した時のダメージが大きいので、危険を分散させるため出資を募り、公平に分配するために会計が発達したそうです

言われてみれば確かに株の起源は大航海時代の冒険航海の費用でしたね。この頃から金持ちの余った金を増やす為に資本主義が発達したのでしたね。

>博打で始まった資本主義は、高度成長時代はまっとうなものと認識されていましたが、成長の限界に達しつつある現在は、最初期の博打に原点回帰している

なるほど、興味深い分析です。確かにそう思えます。

>社会を牛耳っているのが博徒では、人間社会が身を持ち崩すのも時間の問題ですね。

guyver1092 さん一流のブラックジョークならいいのですが、現実に博徒、それも不公正な賭けを仕組む博徒が牛耳っているのですから笑えない恐ろしい現実です。
2014/10/19(Sun) 22:24 | URL  | 雑草Z #SAV8FvZY[ 編集]
真善美の探究
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


2014/10/21(Tue) 18:02 | URL  | 阿頼耶 #zCBYAQrk[ 編集]
Re:真善美の探究
    阿頼耶さん

 初めまして・・・長いコメント有難う御座います。・・・と言いたいところですが、記事の内容と特に関係の無い長文のコピペのようですね。御自分の文章でしょうか?
 スパムと見なしてそのうち削除しようかと思います。悪しからず。
2014/10/22(Wed) 23:49 | URL  | 雑草Z #SAV8FvZY[ 編集]
バブルというカジノ。
バブルについて研究した近代経済学者の第一人者はガルブレイスだったと思ったのですが、彼は興味深いことをいくつか提言しています。

すごいざっくり言えば注意すべきことは、

1.レバレッジをかける仕組み
2.懐疑の排斥

この2つの点です。

この2つが組み合わさるとバブルがおきます。

つまり、(株式)資本主義(1.)と人間の欲望の暴走(2.)が組み合わさるとバブルが生成されるわけです。


そしてバブルはいつかはじけます。そのはじけることについて考察すると、

A.バブルを仕掛けた者
B.バブルに乗る者
C.バブルを壊す者

としたとき、AとCは同一団体(人物)であることが多いのです。

そして大損をするのは逃げることを知らなかったBの人達です。

つまり民衆です。


カジノはシステムがバブル的で、ほぼ仕掛けた人が勝つ仕組みになっていますが、金融市場のバブルも同じだと言えると思います。

ただ、違うことは、カジノには負けない方法があります。

「賭けない(参加しない)」という方法です。


一方、資本主義(経済)はゲームに参加しなければ、生活を営めないのが切ないところです。
金融市場に直接は参加しなくても、物価などで余波がくるあたりはもらい事故のひどい感じとでも言いましょうか。。。

そして、これからもどこかで大小さまざまなバブルが発生し、判断も付かないような、将来の予測もできないような人がバブルの泡となっていくんだと思います。
(あと、参加してないつもりでも余波を受ける人。私もその1人。)

自分は今、どのバブルに参加しているのか?
そしてバブルはいつ潮目が変わり、はじける流れになるのか?

こういう視点もこれから一層大切になると思っています。
2014/10/24(Fri) 21:57 | URL  | でなしNo.146 #89zBIK8s[ 編集]
Re:バブルというカジノ。
興味深い提言の御紹介有難う御座います。ガルブレイスって知りませんでしたが、調べてみると、最初の脱物質主義者の一人と捉えられているのですね。その事からも彼の提言は読む価値があると感じます。でなしNo.146 さんは、彼のどんな著書を読まれたのですか?・・お薦めは?

>A.バブルを仕掛けた者 と C.バブルを壊す者
が同一団体(人物)であることが多い

と言うのも、興味深いですね。納得です。世界大恐慌も、金融財閥が仕掛けたと言う説もあり、一理ありますからね。
仕掛けるものと壊すものが同じと言う事は、完全に自分達の利益の為に社会を不安定にさせていますね。ある意味諸悪の根源と言う事も出来ますね。

>資本主義(経済)はゲームに参加しなければ、生活を営めないのが切ないところです。

そうですね。参加してない積りでも、間接的に参加させられています。本文にも書きましたが、彼等のギャンブルの対象が、企業であったり農業であったり為替相場であったりしているのですからどうしようもありません。違法カジノよりも、人間の生活に関わる部分を賭けの対象にしてはいけないと言う法律のほうが大切ですね。

>参加してないつもりでも余波を受ける人。私もその1人

私も、数年前から株やFXなどの投資は一切しない事にしていますが、それでも色々カジノ経済で搾取されている事実に気付くと、ふざけるなと言いたいですね。
 最近読んだ本に建築家のマルグリット・ケネディと言う人の事が描かれていました。彼女は「金融のシステムが大半の戦争の根であり、大半の対立、社会崩壊の根であるが、その事が伝えられていなません。その真の原因を理解したら、誰もがおかしくなる筈です。」と述べています。全くその通りだと思います。
現代社会は昔よりも住みやすくなったのではなく、とんでもないカジノ経済世界社会の真っただ中・・・そろそろ崩壊するところ・・・ですね。  
 
2014/10/26(Sun) 21:22 | URL  | 雑草Z #SAV8FvZY[ 編集]
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