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2015-01-29 00:02
「日本銀行券」を一か所で区切るとすると「日本・銀行券」ではなくて「日本銀行・券」となりましょう。即ち現在日本で流通している円の紙幣は、<日本>(国政府)が発行した<銀行券>ではなくて、特殊法人である<日本銀行>が発行した(銀行)<券>なのです。特殊法人と言うと何となく胡散臭く、天下り組織や脱税を想起する方も多いと思いますが、日本の銀行の頂点に君臨しているように見える日本銀行も、実はそのような胡散臭い組織の一つなのです。日本銀行は政府から独立した特殊法人であり、株式も上場されているのです。その株式の55%は日本政府が保有していますが、残りの45%の株主が誰なのかは、日本政府も日銀も国民には教えてくれないそうです。〔・・参考文献4より引用〕株主を秘密にするって事が民主主義国家にある株式会社に許されることなのでしょうか?・・・残りの45%の株式の多くを占めるのは、世界の多くの国家に紙幣発行権のある「中央銀行」を設立する事に関わってきた多国籍国際金融組織ではないでしょうか。

中央銀行の役割は、①紙幣を独占的に発行する「発券銀行」、②民間銀行に対して預金を受け入れたり貸し出しをする「銀行の銀行」 ③税金など政府資金を管理し、また国債の償還、利払いの事務などを扱う「政府の銀行」   があるとされています。そして「それらの役割を通して物価の安定や景気の調整を図り、経済の健全な成長を維持する事が目的」とされています。しかし、これらの役割は、①紙幣を独占的に発行する発券銀行 としての位置を正当化する為に後から取って付けられたような「役割」と考えられます。
だから①発行銀行の役割 についてだけ論じます。そうすれば、中央銀行を設立した「本当の目的」も自ずと見えてくるでしょう。

新券を発行するとは、日本銀行券を印刷して作ると言う事です。電子マネー時代の現在であれば、その金額を通帳に記入するだけでもOKです。(これは信用創造と言う事です。信用創造についてはまた機会があれば記事にしたいと考えています。・・汚れたり破損したお札を廃棄してその分新券を発行する場合は別です。)自分でお金を印刷して、若しくは通帳に記入して、新たなお金を作り出すのです。それなりの労働の報酬としてお金を稼ぐのではなく、またそれなりの物やサービスの対価としてでは無く、錬金術よろしく、国内に流通する円を、無いところから勝手に作り出すことが出来るのです。そんな特権を、特殊法人と言えども、一民間企業に与えてよい筈がありません
『アングロサクソン資本主義の正体』によると、日本の通貨流通量[money supply]は、1968年に約34兆円、2008年に760兆円ですから、この40年間に20倍以上に増えています。言い換えれば、2008年のマネーサプライ760兆円の95%以上・・即ち殆どは、1968年以降に、日銀によって作られたのです。その金額は、印刷の材料費などの経費を抜いてほぼ丸儲けです。(このような通貨発行利益を“シニョレッジ”と言います。)2000年以降、日銀は、1年間に多い年で6兆円、少ない時でも0.2兆円、平均しても年間1兆円以上の通貨を作っているのです。ただ印刷して発行し(日本政府に)貸しだしただけなのです。これこそ、ぼろ儲けの錬金術と言えましょう。
その儲けたお金は、日銀の社員、役員の高額な給料となったり、株主のものとなるわけです。先に書いたように株主の55%は日本政府ですが、残りの45%は不明です。その残りの45%の懐にも毎年高額のお金が労なく入るのです。それこそあぶく銭でしょう。この儲け・・・シニョレッジは日本国民全員に還元されるべきでしょう。
日本銀行の株主がお金を沢山儲けようとすれば、流通するお金を印刷するなり通帳に記入するなりして増やせばいいわけです。物価を上げてインフレを起こして通貨を発行すればするほど、日銀の株主は確実に儲かるのです。インフレターゲットで最も確実に得をするのは日銀の株主でしょう。


『アングロサクソン資本主義の正体』で、ビル・トッテン氏は、次のように試算しています。(表を示して、計算しています。)
「政府が全てのお金を1968年から創造していれば、日本政府は(2008年時点での)547兆円の公的債務の代わりに、619兆円の黒字になっていた筈である。あるいは、政府がはじめからお金を作っていれば1968年には公的債務ゼロ、1969年からは、税金を67%減税する事が出来たであろう」
この試算は、概ね正しいと思います。・・・・諸条件を誤差の範囲で変えても、現在の公的債務はほぼ無くなり(あっても現在の100分の1以下…1兆円未満で、)消費税増税しなくても(若しくは消費税が無くても)やって行ける事になったでしょう。

通貨発行権は政府が持ち、シニョレッジ[通貨発行利益]は国民に還元されるべき当然の権利なのです。一企業である日本銀行の社員や役員、株主だけがシニョレッジの恩恵に預かるなんてどう考えても不公平です。

多くの人が指摘するように、アベノミクスで日本の借金を返済する事は不可能でしょう。何せ好景気を演出する為にばら撒いた税金よりも、税収の増加は低いのですからお話になりません。公共工事を減らし、歳出をカットしたほうが遥かに有効です。実際に日本の借金は、アベノミクスで減ったどころか、さらに増え続けています。昨年日本の借金総額は1000兆円を突破して仕舞いました。日本のデフォルトも目前です。
 これを回避するには、徳政令のように今までの借金をチャラにするとか、思い切って財政支出を減らすとか言う方法も考えられなくもないでしょうが、今考え得る最も有効な方法は、紙幣発行権を政府が持つことでしょう。
勿論政府紙幣を発行しようとすれば、中央銀行の利権を享受している大きな勢力が色々理屈を付けて邪魔しようとするでしょうから、簡単な事ではないでしょう。その事については、次の記事で描かせて頂く予定です。


参考文献:

1. 金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 著徳間書店
2. 金融崩壊の後の世界      安部芳裕 佐々木重人 著   文芸社
3. エンデの遺言          河邑厚徳  グループ現代 著  講談社
4. アングロサクソン資本主義の正体 ビル・トッテン 著  東洋経済新聞社

どれも非常に参考になり、面白く一挙に読めます。敢えてお奨めの順番をつければ、4,3,1,2の順となります。

4. アングロサクソン資本主義の正体  は一番最近読んだから・・・と言う事もありますが、今回の記事を書くに当たって最も参考にしました。いくつか引用もさせて頂きました。これ一冊だけでも十分に、政府紙幣の必要性から「カジノ経済」や現在のマネーの支配者による富の収奪の酷さまで広く知ることが出来るでしょう。政府紙幣発行に対するよくある批判・反論に対する再反論も書かれており、ある意味必要十分な本です。

3.エンデの遺言 では、童話作家のミヒャエル・エンデだけでは無く、経済学者ではない様々な分野の複数の人物によって解明された、お金、金融のからくりが紹介されています。(経済学者の著書よりも遥かに、理に適う洞察です。)

1. 金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った  は、金融の歴史にページを割いて紹介しています。マネーの支配者による富の収奪のシステムに関しても詳しく説明しています。読み物としても面白く読めます。そして、多くの陰謀論を「事実」として紹介しています。その中のいくつかは、本当であろう・・・と思えましたが、いくつかは眉唾、嘘とは断定出来ないまでも、はっきり事実とも言えないだろうと言う内容でした。だから陰謀論に関しては内容すべてを鵜呑みには出来ないと思いました。それでも、金融の詐欺的構造の知識は確実に付きますし、十分に面白く読めました。
2. 金融崩壊の後の世界  も、1. 金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った と同じ人物が共著者になっていますので、内容もかなり重複しています。しかし新たに役に立ちそうな興味深い知識も色々得られました。ただ、本書のタイトルでもある金融崩壊後の世界に関する内容(予測、提言)に関しては、物足りなさも感じましたし、賛同できない部分もありました。

以上、最もお薦めは、4. アングロサクソン資本主義の正体 で、次にお薦めは
3.エンデの遺言  ですが、どれも十分に読む価値はありますし、どれか1冊を読むだけでもお金、金融に仕組まれた収奪のからくりがわかり、政府紙幣の必要性を痛感出来ます。私自信は4冊すべて読んで良かったと思っております。どれも必要に応じて、部分的に読み直ししています。
・・・最後は、参考文献を示すに留まらずに、書評っぽくなってしまいました・・・


参考HP
 金貸しは、国家を相手に金を貸す  

サイト名から、そのまま中央銀行の役割(悪行)を暴露しているようなサイトです。
 かなり以前の事なので記憶は曖昧ですが、政府紙幣の必要性を最初に知ったのがこのHPだと思います。十分に価値のあるHPだと思います。しかし一方、参考文献の1.2.のように陰謀論も沢山載っているので、自分で取捨選択し、見極めて読む必要があると思います。
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【2015/01/29 00:02】 | Economic Fascism トラックバック(0) |

インフレ
guyver1092
 政府紙幣のことはよくわかっていなかったので、wikiを読んでみました。過去には、政府紙幣を発行しすぎてインフレになり、国民に害を及ぼしたこともあったようですね。
 後ろのほうに結論めいたことも書いてあり、厳格に運用すれば何の問題も無いと書いてありました。
 さて、現在日銀はインフレターゲットを行い、すでに破たんの兆候も出ているとの説もあり、どこが発行しようが、貨幣の発行をいい加減に行えば、中央銀行だろうが政府貨幣だろうが同じと言うことですね。
 このように考えると、55%の株主となって発行益の55%を得るよりも、政府紙幣にして100%の発行益を得るほうが、賢いということになると考えられますね。

日本人のマネーリテラシーの低さ。
でなしNo.146
個人的には金融というものについて中学校や高校くらいで教えるべきだと思っています。

記事でも書かれているとおり、日本銀行・券に価値があるようにみんなが信じているのが世の中であり、本来20円ほどの原価+製造費で作成できる紙1枚を10000円の価値があると「信じて&流通させて」暮らしているという状態です。

ある人は「信じている」というより「妄信」と言いましょうか、例えば「10000円札って1万円の価値ないよね?」という日本語の文章は今回の記事のロジックがわかっている人以外には頭がおかしいと思われる発言でしょう。

1万円札の価値を疑うことすら発想にないのです。

そしてどこからお金が来るのか?というのもほとんどの人が知ろうともしませんし、おそらくごく表面の知識で満足していると思います。

頭の余計なキャパシティを使わないことは省エネと見ることもできますが、知的に怠惰で、後で痛い目を見る可能性も多分に孕んでいますね。

今回の記事で政府発行通貨の重要性を認識できました。

そうなると、なぜ、通貨発行権を取り戻せないのか?という疑問が浮かぶのですが、このあたりはここでは割愛いたします。
(某サイトにほんの少し気を使いまして笑)

通貨発行権の有効活用!

あ、でもこれ言った大統領ってみんな暗殺されるんでしたっけ(^^;)
陰謀説なのかわかりませんが、整合性が取れる仮説を考えてみたいと思います。

Re:インフレ
雑草Z
>wikiを読んでみました。過去には、政府紙幣を発行しすぎてインフレになり、国民に害を及ぼしたこともあったようですね。

政府でお金を発行すれば、発行し過ぎてインフレになる・・・という理屈は、利権の為に各国に中央銀行を作った国際金融マフィアのプロパガンダでしょう。株式会社である一法人が作った方がよっぽど危険でしょう。シニョレッジが即その法人の儲けになるのですから、株主の為にはどんどん紙幣を発行するでしょう。
お金を使う行政が紙幣発行権を持つのはおかしい・・・とよく三権分離を例に出して言われるようですが、三権分立の行政も司法も立法もお金の出所は政府です。立法機関が民間の株式会社だったら大変でしょう・・・それと同じ事で、紙幣発行権を一民間企業に与えるなんて非常におかしな話です。

>貨幣の発行をいい加減に行えば、中央銀行だろうが政府貨幣だろうが同じ

いえ、違います。紙幣の発行を政府が行っても政府の借金(=国民の借金)は増えません。かなり大きな違いです。

>政府紙幣にして100%の発行益を得るほうが、賢いということになると考えられますね。

そう言う事です。現在考え得る現実的な日本の借金、負債を無くすベストな方法は、政府紙幣の発行だと思うのですが、guyver1092さんはどうお考えでしょうか?

Re:日本人のマネーリテラシーの低さ。
雑草Z
>個人的には金融というものについて中学校や高校くらいで教えるべきだ

自分自身金融のシステムを中学や高校で習った記憶はありませんが、今は、現代社会とか政治経済で、簡単に教えるのではないでしょうか?
 本文に記した中央銀行の3つの役割とか、銀行ビジネスの基本としての「信用創造」とか・・・もしかしたら大学の経済の授業とかで学ぶのかもしれませんが・・・そのような金融カルテルの騙しのプロパガンダを習うのかも知れません。そこでおかしいと思う学生も沢山現れていいと思うのですが、「そんなもの」と捉えてしまう学生が大半なのでしょうね。つまり、金融マフィアのプロパガンダは成功しているわけです。
おそらく、アメリカやヨーロッパでもそんなまやかしのプロパガンダを教えるのではないでしょうか??

>どこからお金が来るのか?というのもほとんどの人が知ろうともしませんし、おそらくごく表面の知識で満足している

の通りだと思います。そして、「エンデの遺言」で取り上げられている建築家のマルグリット・ケネディのように賢明な人はある時そのとんでもないからくりに気付き、怒りに震えるのでしょう。

>でもこれ言った大統領ってみんな暗殺されるんでしたっけ(^^;)

よくご存知で・・・私の挙げた参考文献のどれかを読まれましたか??・・・それとも私が言及したことがありましたか??

そこのところも次の記事にも書きたいと考えているところです。

>なぜ、通貨発行権を取り戻せないのか?

何と、既に取り戻している国もあるんですよ!!!!!


鶏でも飼うか・・
団塊親爺の遺言
私もお金の仕組や社会の仕組をネットで知りこんな流れの中で自分たちは生きていたのかと・・? まあ昔からの年貢の様に社会の安全や安定の為には多少は必要と考えていましたが今のマネーゲーム世界には後から生まれて来た者には奴隷への人生の様なものかもしれません 人々を対立させ戦争を起こさせたり環境を壊す事で儲ける金貸し共が造った今の社会は終わらせなければなりません もう何百年も続いた妄想から私たちが目覚め解放される時代が来たのかもしれませんね 例え相手がマフィアやISISでも私たちは99%の羊では無い

私も昨年末に体が壊れ 病院で大修理 古いものは時々修理が必要なのですね 入院中は食事は無し 点滴だけで何故か無性に卵かけごはんが食べたく成り自然養鶏の本を読み自分も本物の卵や竜馬の愛した軍鶏鍋等を冥途の土産にと想うこの頃 田舎に少々の土地を借り鶏の餌に成る種を撒き自給の自然養鶏を現在、思案中です 自然放牧の家畜たちは現在も鳥インフルエンザ等には無縁だそうです まあこんな事位しか今は出来ませんが強欲な金貸し対策への一歩です

Re:鶏でも飼うか・・
雑草Z
    団塊親爺の遺言さま

からのコメントが暫く来て無くて寂しいと思っておりましたが、体調を壊して入院されていたのですか!?・・・改めましてお見舞い申し上げます。

>何故か無性に卵かけごはんが食べたく成り

私も卵かけご飯に現在嵌っております。鶏を放し飼いにしている方の卵を戴いて食べると本当に美味しいです。

>田舎に少々の土地を借り鶏の餌に成る種を撒き自給の自然養鶏を現在、思案中です

それは素晴らしいアイディアですね。でも、家畜の飼育は休みが無くて大変ですね。

>お金の仕組や社会の仕組をネットで知りこんな流れの中で自分たちは生きていたのかと

御もっともです。中央銀行の存在は詐欺そのものですね。

>後から生まれて来た者には奴隷への人生の様なものかもしれません

そうなってしまう事も無きにしも非ずですね。おっしゃる通り、

>金貸し共が造った今の社会は終わらせなければなりません

ですね。  

Re:Re:インフレ
guyver1092
 私は、貨幣という物の商品との引換証との性質から、商品(資源)のバランスを崩すほど貨幣を発行すれば、必ずインフレになると考えています。(はじめ一対一の比率であったバランスを、貨幣を十倍発行して一対十のバランスにする等)
 不勉強で申し訳ないのですが、政府紙幣は、このような紙幣の発行をしてもインフレにならない仕組みがあるのですか。
 

Re:Re:Re:インフレ
雑草Z
>政府紙幣は、このような紙幣の発行をしてもインフレにならない仕組みがあるのですか。

私も分かりませんが、そんな仕組みはないでしょう。おそらくこの辺のしくみについては私よりもguyver1092 さんのほうが、遥かに知識と見識があると思います。

最初のコメントで guyver1092 さんが

>貨幣の発行をいい加減に行えば、中央銀行だろうが政府貨幣だろうが同じと言うことですね。

との見解を述べられましたが、その見解は全くその通りだと思います。私がその見解を軽率に否定したのは、貨幣の発行をしてもインフレにならない仕組みがあると言う事では無く、政府が貨幣を発行しても借金にならないと言う事です。これこそ大きな違いだと思う訳です。誤解のある表現でしたら申しわけ御座いません。

私の先のコメントの最後の部分の繰り返しになりますが、
私は、現在考え得る現実的な日本の借金、負債を無くすベストな方法は、政府紙幣の発行だと思うのですが、guyver1092さんはどうお考えでしょうか?

Re:Re:Re:Re:インフレ
guyver1092
 返事が遅くなって申し訳ありません。いまだ不勉強ですが、一応の結論は私の中で出ました。
 短期的には、おっしゃる様に借金、負債をなくすことは可能と考えます。ただし、長期的な事及び、これまで政府の行ってきた政策を考えると、先のコメントでも言及した通り、日本国内のモノ、サービスと貨幣のバランスを壊し、インフレ傾向をもたらすすことになると考えます。インフレという物は経済が拡大する場合を除き、必ず弱者に負担が掛かります。そして現在、地球という物理的な制限により経済の拡大が禁止されている場合にこれを行えば、インフレによる、大衆の財産を政府に付け替える事態となると考えます。

Re:Re:Re:Re:Re:インフレ
雑草Z
guyver1092さんお返事有難う御座います。おっしゃる意味は分かりました。
私が議論したい政府紙幣の発行とは、あくまで紙幣発行権を中央銀行では無く政府が持とうと言う事です。

確かに
>これまで政府の行ってきた政策を考えると、

現在の政権の政府なら政府紙幣もどんどん発行しようとするでしょうが、それは中央銀行から借りて使う量と変わらないでしょう。中央銀行から借りているからとブレーキ機能は働いていません。同じ使うなら、利子の付かないまたは返済義務の無いほうがいいでしょう。それによってインフレが起こればどちらにしても財政を緊縮しなければなりませんから。

>現在、地球という物理的な制限により経済の拡大が禁止されている場合

政府紙幣なら止める事も可能ですが、中央銀行からの借金は利子が付きますから、経済成長を止める事は出来ないでしょう。わざと一時的に恐慌にしてリセットするのが彼等の常套手段ではないでしょうか?

この議論、面白くなってきました。次の記事への参考、布石にもなりますので、以上に対して更に御意見お願い致します。





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2015-01-23 00:01
経済成長はどのような時代にどのように行われて来たかを具体的に歴史に学ぶことは、大きな意味がある事でしょう。経済成長を半永久的に続ける事が不可能である事を多くの人が理解できるでしょうし、経済成長は、社会にとって決して好ましい事とは言えないという事もわかる筈だと考えておりました。
だから、いつか日本と世界の経済成長の歴史をそれぞれまとめて記事にしようと考えておりましたが、自分自身、経済成長の歴史をよく知りませんでした。特に日本の場合、経済成長が著しかったのは「高度経済成長時代」である事は知っていても、それ以前の事は余り知りませんでした。簡潔にまとまっている書物やサイトも見付けられませんでした。


そんな折、昨年の暮れに、日本の経済成長の歴史をごく簡潔に短くわかり易くまとめた記事を見つけました。
<爽風上々の日記>2014-12-31 【2014年まとめ 経済成長に振り回される】です。

以下、この記事から部分的に抜粋して転載致します。(ちなみに、もとの記事の日本の経済成長の部分のみを抜粋させて頂きましたが、この記事は他の部分も秀逸な洞察で、全体を通して読む価値があると思います。)

(以下抜粋転載)
(日本において)経済成長が盛んで景気の良かったと言えるのはどのような時代だったのでしょう。まず江戸時代の新田開発が盛んな時代があげられます。これは人々の労働と努力と言えますが、見方を変えれば自然というものを収奪しただけのことかもしれません。新田となった場所の元の自然に住んでいた生物は概ね死滅しました。
明治時代になり殖産興業という名の元で工業化が進みますが、これは裏ではアジア各国からの農業産物などの輸入というもので支えられてきました。それで食糧も増えて人口の増加にもつながりました。より確実にできるように植民地化を進めた過程で列強との摩擦が増し戦争になりましたが、この辺の事情は西欧列強の経済成長の経緯と重なります。資源供給国からの収奪で成長できただけのことと言えます。

敗戦後、復興の延長のように高度経済成長期が訪れますが、これも他の国々と同様に「安価な石油に支えられた工業化」による成長でした。石油だけではなく鉄やコンクリートなどの資源もその時代を支えている限りでは無限のように思えるものでした。私はこれは「エネルギー資源からの収奪による成長」であったと考えます。人類史上極めて稀な事態だったと考えています。おそらく後の世から見れば一瞬の幻と感じられるでしょう。
最後の経済成長はバブル経済だったのでしょうが、身分不相応と言うべき円高水準になったためにアブク銭が出回り(まさにバブル)これまた一瞬の夢の時代が到来し去っていきました。これもその後の経過を見たときに感じられるのは「後世からの収奪」だったのでしょう。あれからの20年という時代のあるべき利益をすべて一瞬にまとめて受けたようなものでした。

このように見れば「安定的な経済成長」などと言うものは幻にすぎず、それを求める限り何らかの歪みが出てくるのは当然でしょう。

(以上、抜粋転載)


以上を読めば、昔から経済成長は他からの収奪によって為されて来た事がわかるでしょう。つまり、自然、他の生物、他の地域、他の民族、地下資源、そして後の世代・・・・からの収奪です。最後のバブル時代は、既に収奪する相手がいなくなり、実体のないバブルを作り出しました。そしてそれは、後世に引き継ぐべき資源や環境から大きな収奪を行い、代わりに後世に借金を引き継がせました。これは、正に後世からの収奪と言えるでしょう。では、後世からの収奪によってバブルと言う見掛けの経済成長をしてしまった後の現代社会は、どこから収奪して経済成長が出来ると言うのでしょうか? バブル以降の財政出動による景気刺激策はことごとく失敗して日本の借金を増やしただけです。日本の経済成長の歴史の流れを見れば、この手の政策は既に通用しなくなっている事は火を見るよりも明らかでしょう。・・それこそ残された方法は、他国と戦争して、資源を収奪する事にでもなりませんでしょうか?? (実際は戦争に勝てるかどうかも分からないし、勝っても既に収奪するものが無いかも知れません。戦争を行えば、多くの国民が犠牲になる事は間違いありません。)

借金で調達した国のお金を公共工事でばら撒いて経済を刺激して、経済成長する事によって税収を(消費税増税で)増やし、財政再建を果たして膨大な借金を返そうとする政策・・・が如何に愚かで不可能である事がおわかりでしょう。
だから勿論アベノミクスなんて失敗する事は目に見えているでしょう。・・・世紀の愚策です。仮に成功したとしたら、生態系が破壊され、更に過酷な状況になるでしょう・・・。つまり、アベノミクスはやらないことが最善策です。
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【2015/01/23 00:01】 | Economic Fascism トラックバック(0) |

ご紹介御礼
爽風上々
拙記事をご紹介くださいましてありがとうございます。
素人の直感だけで書いたようなものですので、専門家から見れば穴だらけでしょうが、意外に真実はそこらにあるのではないかと思っています。

収奪できるフロンティアもなくなり、エネルギーもふんだんに使うことができなくなった現在はパイは増やしようもなくせいぜいゼロサムゲームしかできないようです。
(本当はマイナスサムだと思いますが)
その中で経済成長というものは他からの強奪に他なりません。これまでの中国の成長というものは正に日本など他国からの強奪というべきものでしょう。それも陰が差してきたようです。



日本の経済成長の歴史
雑草Z
    爽風上々さん

 こちらこそ、記事を掲載させて戴いて有難う御座います。本文にも記したように、私は世界の・・と言うよりも西欧諸国の経済成長は、大航海時代や産業革命による他国や地下資源からの収奪と言う事は賭けたと思いますが、日本の経済成長に関しては高度経済成長期以前は、良く分からなかったので、こんなに簡潔にすっきりとまとめる事は出来ませんでした。だから自分の勉強にもなりました。その意味でも有難う御座います。

>現在はパイは増やしようもなくせいぜいゼロサムゲームしかできないようです。(本当はマイナスサムだと思いますが)

そうですね。だから日本の借金は増えているし(別な理由もありますが、それは次に書きます。)富の不公平分配による格差が広がっていますね。
 成長の限界による崩壊の兆しは世界中で始まっています。本格的な崩壊が積を切ったように始まるのが怖いですね。

経済成長とは
爽風上々
経済成長というものに疑問を持ったのは、初めは「年○○%成長」というのがどういうことなのか、誰もわかっていないように見えたことでした。

成長が続くということは、たとえば2%であれば翌年には1.02になりますがその翌年には1.02×1.02=1.0404となります。1年なら1.02×2=1.04と大差がないようですが、何年も先になると大きな差になります。
これは預金の複利計算と同じことですが、指数関数というもので、期間が長くなるほど先の上昇率は大きくなります。
年2%だと、20年で1.5倍、35年で約2倍となります。

GDPの成長はエネルギー消費や資材などの消費量と直結しています。2倍になったときにエネルギーが2倍供給できると考えられるでしょうか。

そのために、経済成長というものが大きかった時代の最後はどこも大混乱に陥っているようです。
結局「持続的な経済成長」などというものは言葉の中身の完全な矛盾であるということでしょう。

ならばどうするか、適正な規模であれば全く成長の無い定常状態で継続できるのですが、現在の経済はすでに適正規模を大きく越えています。定常状態でもいずれは破綻するでしょう。少しでも早く縮小することが破綻を避ける道です。

Re:経済成長とは
雑草Z
人間(生物)の感覚は対数感覚的ですから、指数関数的でなければ、色々な伸びを実感出来ないでしょう。リニアな1次関数的伸びと言うのは人間のお遊び(数学)の世界のものかも知れません。指数関数的増加に対して生物の対数関数的感覚が、自然の実体とも言えましょう。

>少しでも早く縮小することが破綻を避ける道です。

この辺りは、共通認識の部分です。指数関数的な増加は、理学系の基本だと思いますが、わからない人も多いんでしょう。現代人の経済成長志向は、それが儲けの本質である金融業、銀行が仕掛けているとも考えられます。そのようなシステムで世界は動いているので、そこにメスを入れなければならないと考えています。

執拗過ぎる経済成長主張
爽風上々
私自身も長いこと勤め人をしていましたので、決まったサラリーの中で生活をしてきましたが、企業がなぜ利潤を上げなければいけないかということまではあまり考えたこともありませんでした。

企業の会計では雇用者の賃金まですべて固定費として計上し、それらすべてを払った残りが利潤としその中から出資者に対する配当を払います。その要求が強くなればできるだけ固定費を圧縮し配当にあてる費用を捻出しなければなりません。

経済成長を求めるだけならまだしも、現在の政策では物価上昇すら求めています。これは名目の上での企業の売り上げを上昇させ、決算での利益を上げて配当に当てる費用を増加させるだけのものに見えます。
雇用者の賃金を上げるという目的に使われるならまだましなのですが、それよりも配当が重視されているような風潮に感じます。

それが資本主義というものなのでしょう。あくまでも出資者の利益を最重視するというのが資本第一主義です。それを達成するためであれば何もかも崩してもよいのでしょう。

しかし、それが不可能であるということは再三申し上げている通りです。縮小しつつある経済であっても出資者への配当はなくなるわけではありません。それで満足していれば良いものを、欲を出してさらなる配当を求めるから世界が乱れていくわけです。

誰が世界の敵かということも段々と明らかになってきたように思います。

Re:執拗過ぎる経済成長主張
雑草Z
資本主義なんてものを多くの人が容認するのはおかしな話です。資本家[Capitalist]の社会[Society]で、資本家から見れば労働者も資本の一つです。完全に人間の差別だと思います。財閥、資本家の御用政府、御用学者は、自由経済と資本主義を同じものだとしてプロパガンダしていますがそれは詐欺的プロパガンダでしょう。一歩譲っても、資本主義は自由経済の特殊な一形態としか言えないでしょう。まして自由主義と資本主義が一体の訳がありませんが、共産主義に対する言葉として、わざと「Freedom」と言う言葉を使い、自分達の特権を維持しようとしているのでしょう。私はこれを「抱き合わせの自由経済」と言っています。

>誰が世界の敵かということも段々と明らかになってきたように思います。

金融業(銀行)と資本家は表裏一体と言えましょう。


地球という入れ物の制限
guyver1092
 地球の大きさによる制限を人類は分かっていないですね。豊かな生態系という人類にとってタダに見える物を消費して経済成長を行ったれけですが、現在、生態系の致命的な縮小により、地球規模の文明崩壊の危機にひんしています。豊かな生態系が何よりも大切であることが分からないのでは、破滅を回避することは不可能でしょうね。

Re:地球という入れ物の制限
雑草Z
確かに地球と言う入れ物の大きさは、ある意味大き過ぎて分っていませんね。「ある意味」と言うのは、人間の感覚と比べて・・・と言う意味です。確かに大航海時代までは、(西洋人から見て)「未開の地」が果てしなくあり、現在もその価値観のままの「高度経済成長時代の遺物」が残っているわけです。日本で言えばアベノミクスを推進する人々が典型例でしょう。
 しかし、槌田敦さんや石川英輔氏が江戸時代の事を書いた書物を読みますと、当時の人々の中にも沢山「成長の限界」を肌で感じていたようですね。だからシビアな人口間引き等を行っていたのでしょう。これは「文明崩壊」に載っていた海外の島国(名はどこか忘れました。)でも同じです。つまり、一定の土地に定住してきた民族は、「成長の限界」を肌で感じ取っていたのではないでしょうか?・・・「グローバル化」なんて言葉に騙される現代人は理性を失ったと言えましょうか・・?・でもまた最近「成長の限界」を感知している若者が増えたとも感じています・・・。

自由とは
爽風上々
フランスのテロ事件でも、「表現の自由」の問題が大きくクローズアップされてきているようです。
日本でも「ヘイトスピーチ」の問題が絡んできますが、完全な「表現の自由」というものはありえないように感じます。

同じような問題は「自由経済」というものの中にも潜んでいます。何をやっても自由というような「自由経済」というものは、理想論の中ではあるかもしれませんが、実態では弊害の大きさがわかるばかりです。
自由というものはあくまでも他に迷惑をかけない程度に制限されなければなりません。どこまでも自由などというものを認めれば、強者が完全支配まで突き進むばかりです。

しかし、それまでの歴史であまりにも自由を制限するようなことが起こってきたために、自由こそ最大の目的という風潮ができたことも間違いありません。
そこのところを整理して考えるためには、「弱者の自由」と「強者の自由」をはっきりと分けて考えるところから始まるのでしょう。これを一律に議論することはすべて「強者への迎合」と考えるべきなのかもしれません。

Re:自由とは
雑草Z
>自由というものはあくまでも他に迷惑をかけない程度に制限されなければなりません。

そして、公正でなければモラルハザードを引き起こしますね。今の資本主義経済こそまさしく不公正のステレオタイプでしょう。

だから、
>何をやっても自由というような「自由経済」

は理想では無く、弱肉強食の無情なものでしょうね。
よく、社会主義、共産主義は、運営する人々が優等生で無ければ悲惨なものになると言われますが、資本主義も同様、若しくはそれ以上に酷くなるでしょう。

果たして現在のほうが過去よりも自由なのでしょうか?

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2015-01-17 00:01



5,6年前からでしょうか。・・石川英輔氏の『大江戸シリーズ』を色々購入して読みました。中毒的(一つを読み終えるとまた他のが読みたくなる状態)に嵌りました。『大江戸えねるぎー事情』 、『大江戸リサイクル事情』、『大江戸生活事情』、『大江戸しあわせ指南』・・・・。この『大江戸シリーズ』にも同一作家の著作物にありがちな、どれを読んでも貫かれている思想の金太郎飴状態が観られます。大江戸シリーズの根底に流れる石川英輔氏の哲学に共感する私としては、この金太郎飴状態も含めて、大江戸シリーズを麻薬のように愛読してきました。(一人の作家の作品には、この金太郎飴状態は寧ろ大切なことでしょう。それが個性であり、そこに惚れた読者がファンになるのでしょう。著作物に限らず、音楽や美術、学術論文等などにも言える事です。)

石川英輔氏は、大江戸シリーズの前口上(プロローグ)などの中で、「決して江戸時代がとても素晴らしく、桃源郷のようだったと思っているわけではない。・・今も昔も地上に天国がある筈は無く、人間は多くの愚行を重ねて生きてきた・・・」のように述べています。そして、「現在の価値観だけが正しいわけではない・・」と間接的、消極的、そして控えめに江戸時代を肯定するような書き方をしていますが、その実、本編の内容は、現在よりも江戸時代のほうが賢かった・・・と言える実体をこれでもかと示します。そう、環境問題でも社会問題でも、江戸に学べば解決出来る事が沢山あると言う事、そして解決のために、新たな価値観を模索する必要はなく、江戸時代の価値観は十分に持続可能な社会を維持できた・・・と言う事が『大江戸シリーズ』の本のどれにも共通して流れています。そして、その理性的な洞察は、的を射ていると感じます。更に石川英輔氏の江戸に対する深い愛情も伝わってきます。
例えば『大江戸生活事情』のプロローグには、「明治維新は一種のクーデター政権だから、旧政府が悪ければ悪いほど自分達を正当化出来る。その為、過去の時代を一種の暗黒時代のように教えて、欧米を正しいお手本とする方針をとった。」とあります。これには目から鱗でした。なるほど、その通りだと思いました。
 「大江戸シリーズ」のどれを読んでも・・エネルギー事情でも、リサイクル事情でも・・・同じ事をするのに、確かに現代のほうが時間効率はいいのですが、一方現代は持続可能でない方法ばかりです。それに比べ、江戸時代のやり方は時間と手間は掛ったかも知れませんが、持続可能[sustainable]な手法ばかりです。
現在の政府が行っている(環境対策等の)政策の中で、江戸時代よりも優れている・・・と言い切れる政策は見出せません。
江戸時代のほうが遥かに優れていた・・・と言う政策はリサイクルでも省エネでも、交通でも、農業でも・・・いくらでも見出せます。現代の科学技術と言うものは、つくづく一面的で、中途半端で、デメリットの多いものだと痛感します。
現在行われている環境対策;エコ替え、ペットボトルなどのリサイクル運動、原子力をはじめとする石油代替エネルギーの大半・・・は、環境問題を解決するどころか、環境問題を悪化するものばかりです。「エコ」は「エコ」でもエコロジー[ecology;生態環境] 対策ではなく、エコノミー[economy;経済]対策だからです。日本に限らず現代の人々は、経済成長という愚かな主義に洗脳されて環境を破壊し続け、自分たちで自分たちの首を絞めている状況です。それに対し、江戸時代の人々の多くは、地球の循環に即した一種の理想的な持続可能社会を作っていたのです。江戸時代のほうが現代人よりも遥かに自然の摂理に通じていたように感じます。
現代の技術を全否定する積りはありませんが、破局に突き進んでいる現代社会は、どうしようもない対症療法的付け刃の政策を続けるのではなく、今こそ江戸に学ぶべきなのです。
江戸に学ぶべきことは非常に多いのです。「大江戸事情シリーズ」を全部制覇しよう・・・とは申しませんが、環境問題や社会問題を論ずる場合に限らず、誰でも、石川英輔氏が調べて描いた、彼のライフワークとも言える「大江戸(事情)シリーズ」の一つでも読んでみる価値は十分にあると思います。強くお奨めします。


余談ですが、石川英輔氏の小説家としてのデビュー作であり、出世作でもある『大江戸神仙伝』も大江戸シリーズの一つと言えるでしょうが、こちらは私がお奨めの「大江戸(事情)シリーズ」ではありません。ノンフィクションでは無くSF(恋愛)小説です。このタイムスリップものは続編などもあり、合わせて「大江戸神仙伝シリーズ」とも言えましょう。(他に『大江戸妖美伝』、『大江戸遊仙記』など・・)フィクションに対する興味が失せてきた私には、それほど面白いとは感じず、途中で読むのを止めました。(特にタイムスリップものは矛盾だらけであまり好きになれないものが多いのですが、そんな中では悪くないと思います。)高校、大学生くらいだったら、面白く読めるでしょう。・・・私もまたいつかトライしてみようかとも思います。(お奨めの文明論の一種とも言えるノンフィクションの「大江戸事情シリーズ」に対して、こちらのSF恋愛小説は「大江戸情事シリーズ」と言った方が語呂もいいし対応関係も完璧かも知れません。・・(笑))これまで私が石川英輔氏のSF小説の中で最後まで一気に読めたものは、【2050年は江戸時代】だけです。これは非常に面白く読めましたし、参考にもなりました。

 「大江戸情事シリーズ」は小説にしても、江戸時代の優れた知恵をここかしこで紹介していますので、そこは読みどころです。彼の作品を読むと、石川英輔氏は、つくづく江戸時代を愛しているものだと言うことが伝わってきます。そして、多くの現代社会の問題を解決するためにも、多くの人に江戸時代の優れた知恵、技術、文化、粋、・・・を紹介したいのだと思います。非常に共感致するところです。

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【2015/01/17 00:01】 | 書評 トラックバック(0) |

石川英輔氏
爽風上々
石川さんの本はデビュー作の「SF三国志」など読んだもののそれからはご無沙汰で、久し振りに大江戸神仙シリーズの一冊を読んだのですが、内容に反発を感じることもありあまり読まなくなりました。

エッセイシリーズがあるとは知らなかったのですが、図書館で探して読んでみようかと思います。

無批判に江戸時代は良かったというようなことを書いている人もいますが、その欠点も認識された上の姿勢のようなので読む価値はありそうに思います。

江戸時代に人口は約3倍に増えたようです。新田開発も盛んでさまざまな技術の発展もあり、また戦争のない状況が生産増加をもたらしたといえます。
矛盾はどの社会にもあり、それが噴出することもあります。今年の大河ドラマもなんとなく見ていますが、幕末の変革を求める志士と言われる人々の求めたものはなんだったのか、諸外国の中でやむを得なかったとは言え、間違った方向に突き進んだのかもしれません。

訂正
爽風上々
デビュー作は「SF三国志」ではなく「SF西遊記」でした。最近よく三国志関連のものを読んでいたのでなんとなくそちらを書いてしまいました。

地球の大きさ、日本の大きさによる制限
guyver1092
 さまざまな制限の中で、最大限太陽エネルギーを利用してきたのが江戸時代ですね。
 江戸時代の技術力による太陽エネルギー固定能力の範囲では、三千万人の人口を養うのも多少の余力があったようです。「貝と羊の中国人」によると、かなりの余裕があり、この余裕のおかげで明治維新の経済発展があったとのことです(槌田氏も同様なことをどこかで書いていました)。
 当然経済発展は、庶民の富を吸い上げて行われたので、比較的小規模な農民等は没落したそうです。また、環境破壊も進んで、足尾銅山鉱毒事件等が起きたようです。

Re:石川英輔氏
雑草Z
私は「大江戸神仙伝シリーズ」(別名「大江戸情事シリーズ(笑)」)を、中古で数冊購入し、そのうち2冊読んでみましたが、どちらも前のほうだけ読んで止めてしまったのは、大して面白いと感じなかったからです。(例によって、タイムスリップものの矛盾も嫌いですし・・)

爽風上々さんは

>内容に反発を感じることもありあまり読まなくなりました。

との事ですが、どんな部分に反発を持ったのでしょうか?興味があります。


一方、お奨めの、「大江戸事情シリーズ」は、私の紹介の仕方が誤解を招いたのかも知れませんが、エッセイではないと思います。学術論文のような固い書き方ではありませんが、読みやすく書かれた文明論(江戸時代と現代の比較)の類だと思います。比較文明論とも言えるのでしょうか?
 タイトルの項目の内容に関する江戸時代の紹介でもあり、データを調べ、現在と比較して考察しています。例えば、「大江戸えねるぎー事情」では、同じ作業をするエネルギー量を、石油の量に換算して比べています。江戸時代のほうは、人力も石油換算しています。(そうしないとほぼゼロJになってしまいますから・・。)文章には彼の思想も反映されてはいますが、エッセイや随想の類では無いと思います。江戸時代の余り知られていない知恵も様々紹介されていて、興味を持って最後まで読めます。大江戸神仙伝」のように眠くはなりませんでした。



Re:地球の大きさ、日本の大きさによる制限
雑草Z
>最大限太陽エネルギーを利用してきたのが江戸時代

そうですね。風力、水力から薪炭や人力に至るまで太陽エネルギーと考えられますね。それ以外のエネルギーを殆ど使わなかった事が、江戸時代の素晴らしさですね。

>この余裕のおかげで明治維新の経済発展があったとのことです(槌田氏も同様なことをどこかで書いていました)。

言われてみれば私も槌田敦さんの書物でそんな事を目にした記憶があります。江戸時代の余力は結構あったのですね!?・・・現代のほうが真の意味の余力は無いでしょうね。

>比較的小規模な農民等は没落したそうです。また、環境破壊も進んで、足尾銅山鉱毒事件等が起きたようです。

なるほど、明治維新以降、現代に繋がる環境破壊と格差問題が起こった・・・とも言えそうですね。・・とすればやはり明治維新は本当は日本にとって良くなかったのかも知れませんね。




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2015-01-11 00:01

他の目的で・・・自動車優先で歩行者への配慮がない除雪作業の現状を非難する為に・・・今年の1月5日(月)の初出勤は、天気が良ければ、足で雪道を歩いて歩行者への配慮の無い除雪の実態を写真に収めてここに載せようと考えました。

徒歩出勤は初めてです。最短距離はほぼバス通り沿いで13.2kmです。どのくらい時間がかかるか判りませんでしたが、大体2時間半前後と読みました。朝晴れていたら、5時半頃に家を出ようと計画しました。勿論こんな事で背水の陣で最後まで歩く積りは無かったので、道が積雪の為に歩行困難だったり、雪が多めに降ってきたり、吹雪いたり、遅刻しそうになったり疲れたりしたら、無理せずに直ぐに路線バスに乗り込もうと、通勤で使える時間帯のバス時刻表を歩きながら見れるように紙に写して小さなクリアケースに入れて持参致しました。ここのところずっと、あまり利用されなくなった路線バスにも拘らず、朝の通勤通学時間帯ですので、30分に1本くらいの割合で、使えそうなバスが4本在りました。バス停は平均して500m毎位にありました。街がない田んぼの中でも、1km未満の間隔でした。・・・と、言うことでバスのフォロー体制は万全でした(笑)・・・但し、吹雪いた時に屋根の無い停留所で長時間バスを待つのは大変ですし、歩行者が歩く余地がなくて、危険な場所もあるかと思いましたが、兎も角予定時刻を少し遅れて出発しました。この日の歩行者の道の環境は思ったよりはまともで、時々写真を撮りながら歩いていたら、時間もどんどん経過してペースが遅くなりました。そして、除雪の不備よりも歩く事に興味が移りました。何かあったら乗ろうと計画していたバスは4台ともやり過ごし、遅れを取り戻す為に途中何度か走りましたが、結局最短13.2kmを歩き通しました。通勤でこれだけの距離を歩いたのは初めてです。山登りでもない限り、徒歩で一日に10km以上歩くことは稀です。大抵の現代人はそうではないでしょうか?
冬の東北の朝は日が昇るのも遅いのですが、雪道は明るく、ライト無しで歩けました。
前置きが長くなりましたが、通勤路を歩き通して考えるところがありますので、今回は自治体の除雪行政の批判は止めて(後の機会に置いておいて)交通手段としての徒歩と言う事について書かせて頂きます。


石川英輔氏の大江戸シリーズにも記載されていましたが、昔の人・・江戸時代の人は、片道十数kmの道のりくらいは平気で歩いたと言います。自動車など無かった江戸時代の庶民は馬で移動する事も余りなかったでしょうから、必然的に徒歩が主な移動手段だったでしょう。通勤でも仕事でも徒歩が主ですから、普通に暮らしていても、一日数kmは楽に歩いていた事でしょう。職場が遠い・・・と言っても現在のように数十km通勤なんて事はほぼ無かったでしょう。飛脚は別格としても、行商人も魚や野菜の入った重い桶などを担いで一日十kmは軽く歩いて仕事をしていたでしょう。

封建時代の日本人は土地に縛られて移動の自由が無かったと見られがちですが、江戸時代は平和が長く続き、多くの人が歩いて旅して回ったそうです。伊勢には、北は奥州、南は九州から毎年沢山の人が御参りに訪れ、遷宮の年(1830年)には500万人(当時の日本の人口3000万人の六分の一)が伊勢に訪れたと言う記録も残っているそうです。つまり、一日数十kmを数十日間歩き続ける旅をする人が沢山いたと言う事です。旅するのが大変だったろう・・・と思うよりも、江戸時代は、そんな連続数十日間も旅する余裕があった事と、治安が良かった事とを感心します。
徒歩のエネルギーは人力です。人力は、元を辿れば食糧、植物に行き着き、植物のエネルギー源は光合成による太陽エネルギーです。食料は基本的にその年に植物が光合成で貯めた太陽エネルギーですから、人力を使うと言う事は毎年地上に降り注ぐ太陽光の一部のストックの利用と言う事になりましょう。生態系を豊かにする事はあれ、生態系を破壊する事はないエネルギーの使い方です。

当方は、最近自転車生活を送っていますので、数km~十数kmの道のりは自転車で行くのが億劫ではありません。しかし、徒歩はかなり億劫で、1kmくらいの道のりでも面倒に感じます。
しかし、【ビル・トッテン氏】は自宅から京都駅までのおよそ8kmを速足で歩くそうです。(普通に歩いたのでは体力が付かないと考えているのでしょう。)
私も自転車の使えない冬場は、数kmくらいは徒歩を心掛けたいと思います。
流石に片道2時間半の13kmの道のりを毎日通勤で使えば、時間の使い過ぎと感じますから、ごくたまに(冬場に数回(1回)というところでしょうか?)片道のみ歩いて、もう片道はバスを利用しようと思います。

当方は、マイカー通勤に反対です。自動車を一人で運転して通勤する事はエネルギーの浪費と考えます。通勤は徒歩や自転車、若しくは電車やバスなどの公共交通機関で通勤できる範囲内にすべきです。自分も含め殆どの人は自家用車通勤するだけの価値のある仕事をしていないと思います。
自家用車ではありませんが、車を使うほどの仕事をしているのは、救急車だとか消防車だとか緊急車両だけと考えられるかも知れません。・・・しかし、それらの使用でさえ、自動車社会によって引き起こされる交通事故の犠牲者と比べて価値があるのか・・?と考えます。道路を消防車とか救急車しか利用しないとしても、その為に道路を作る事による犠牲(生態系の破壊など)のほうが長い目で見れば遥かに大きいのではないでしょうか?
私の家にも自家用車はありますが、出来るだけ使いません。しかし、自家用車を持っていて出来るだけ使用を控える・・・なんて事では甘いと思います。ハイブリッドカーでも軽自動車でも駄目でしょう。(軽自動車を最小限に使う・・・と言うのが一番「まし」でしょう。)自家用車を持たない事が重要だと思います。その意味で最近の若者の自動車離れは非常にいい傾向、歓迎すべき事と感じております。

余談ですが、日本の国を動かしていると自認している人々も自動車通勤する価値は無いと考えます。それどころか彼等に限って、自動車通勤する価値は全く無いと考えます。彼等は是非とも徒歩出勤して欲しいと考えます。例えば現総理大臣が徒歩通勤して、公務に支障をきたせば、それだけアベノミクスのような愚策の決定や施行が先延ばしになり、やがて出来なくなり、日本にとっては非常に良い結果をもたらすでしょう。もしかしたら、それによって国家破綻を回避できるやも知れません。安倍首相をはじめとして、現政権の議員、官僚達はみんな徒歩通勤して、是非とも公務に支障をきたして欲しいものです。徒歩通勤するだけで、少しは社会の害になる事を減らせるでしょう。
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【2015/01/11 00:01】 | 一寸日常生活 トラックバック(0) |

とほとほ
爽風上々
13km通勤徒歩というのはすごいですね。私もよく散歩はしますが、通常で5kmほど。10kmを越えると身体のあちこちががっくりしてきて限度がわかります。

1日あたりの徒歩旅行の旅程でもだいたい30km程度のようです。それを1日かけて歩くので、休憩と昼食を除き8時間で時速5kmといったところのようです。
当地でも年に一度のウォーキング大会があり最長コースは40kmというのがあるようですが、とても挑戦はできません。これまでも10kmコースまでの参加で、今年もその予定です。

慣れ・・習慣
雑草Z
>とほとほ

とは、上手いタイトルですね。

当方は、自転車生活は慣れていますが、徒歩は面倒で、500mくらいでも殆ど自転車にしますが、雪国では冬場は自転車に乗れません。(時々乗ってる人を見かけますが・・)
ビルトッテンさんは8kmを速足で歩きますし、江戸時代の人は10kmくらいは普通に歩いていたようですので、自分も途中でバスに乗ってもいいや・・・て感じで歩いたら、結構楽しく歩けました。一度歩けば自信もつきます。忘れる前にまた歩いて習慣化したいと思います。でも、

>私もよく散歩はしますが、通常で5kmほど。

と言う爽風上々さんの歩く量のほうがずっと多いと思います。当方は夏場は大抵自転車ですし、冬場は3月までにあと一回徒歩通勤してみようかな…ってくらいです。
普段よりは東京に行ったときのほうがよほど歩きますね。数駅分歩きます。

東京
爽風上々
以前はよく東京などにも出て行ったものですが、都会は田舎よりよほど歩く距離が長いですね。
車に乗るにも駐車場があまり無く、あっても遠かったりまたタクシー乗り場も離れておりそれくらいなら歩いた方が早いやと思ってよく歩いたものです。

田舎の方が目的地寸前まで車で近づけたりするので歩く必要がなく、足も弱るようです。家内の親が年老いてまったく歩くことがなくなり、衰えがひどくなりました。
自分の母親も同年代なのですが、こちらは東京ではないもののその郊外でどこに行くにもバスを使ってその先は歩かないと買い物もできないと言うことで身体は衰えながらも結構歩くようです。

やはり人間は歩くことが必要なようです。

都会と田舎の歩く距離
雑草Z
>都会は田舎よりよほど歩く距離が長い

そうですね。自家用車が普及してから、田舎のほうが断然自家用車依存が高くなり、歩かなくなったでしょうね。田舎では一家に一台では無く複数台・・大人の数だけ車があるなんて家も珍しくなくなって来ましたね。良くない傾向です。だからこそ、若者の車離れは好ましく思いますが、それも都会のほうが強い傾向でしょうね。田舎では通勤に車を使うのが一般になりました。【化石燃料の罪】で送風上々さんが危惧されているように、「自動車社会」になってしまった為の弊害は非常に大きいと思います。

通勤手段
guyver1092
 通勤手段は、徒歩や自転車、若しくは電車やバスなどの公共交通機関以外にも、少なくとも原付までは許せると考えます。理由は、公共交通機関の定期代と原付の燃料代を比べると、燃料代のほうが安いからです。計算したところ、原付本体価格を含めても、三万キロぐらいでトントンになりました。化石燃料の消費はほぼ金額に比例するとの事なので、原付は公共交通機関より少しましなのではと思います。
 むろん、徒歩、自転車がずっと省資源的ですね。

歴史にifは禁物
爽風上々
どうもまたあの記事に近づきそうで申し訳ないですね。

「歴史にifは禁物」とは良く言われることですが、歴史そのものにはそれは言えるとしても、歴史を現代や未来のために使おうとするならフルに”if”を使うことが必要です。私も常々その想像を行なうことで現象の本質に迫ることができると考え思いをめぐらせています。

そこで今回のIFは「もしも内燃機関が発明されなければ」です。石油などの化石燃料を燃やすことや合成化学原料としての使用はできても、内燃機関の発明が無かったとしたら自動車の繁栄は簡単なことではなかったでしょう。
もちろん、実際に検討されたように蒸気機関を使った自動車と言うものが発展したかもしれませんし、そのうちには電気自動車や水素自動車が発明されたかもしれませんが、その進展の速度はきわめて遅いものだったでしょう。

そうだったとしたら、ここまで社会の変化というものは進行しなかったのではないかと思います。
自動車と言うものが個人の移動を自由にし、それが社会の人間のつながりというものを破壊する方向で変革してしまったと言うならば、それが無かったとしたらここまでの変化は無かっただろうという想像です。

そこまでのIFを想像してみれば、なぜ自動車が人間社会を変化させたかが理解しやすいと思います。

Re:通勤手段
雑草Z
なるほど、原付は電車やバスよりも費用対効果が良さげですか!・・・ならば、50ccカーも良さげですね。燃費はどのくらいなのでしょう?
 ただ、公共交通機関が定時に走るものだとした場合、それに更に一人乗ろうとバスや電車の燃費の増加は微々たるものですから、そういう意味ではバスや電車のほうがいいですね・・・・「必ず運行するもの」と仮定した場合で、それを言ったら飛行機も同じになってしまいますが(笑)・・・実際地方の赤字路線やバスは乗客も少なく、そこまで考慮した燃費は自家用車よりも悪いかも知れません。でも、先ずはみんなで公共交通機関を利用する方向に持って行くべきだと思います。

Re:歴史にifは禁物
雑草Z
>歴史を現代や未来のために使おうとするならフルに”if”を使うことが必要です。私も常々その想像を行なうことで現象の本質に迫ることができると考え思いをめぐらせています。

なるほど!そういうifの使い方は非常に有効ですね。

>「もしも内燃機関が発明されなければ」

は考えたことが無かったので、非常に参考になりました。
その場合、スターリングの台頭はあったでしょうか?

>そこまでのIFを想像してみれば、なぜ自動車が人間社会を変化させたかが理解しやすい

このコメントを読んで私も納得致しました。



燃費
guyver1092
 50ccカーは重さの分だけ原付よりも燃費は悪いでしょうね。ちなみに私の原付は夏場の最高の燃費がリッターあたり56km、冬場は47kmほどです。同僚は私のより2~3kmほど悪いそうです。
 公共交通機関は定員いっぱいに近付けば近付くほど1人当たりの燃料は少なくなるでしょうね。ただ、余裕のない現代社会では自家用の交通手段の高い自由度が好まれるのでしょう。
 高度経済成長までは、買い物等は半径数百メートル以内で事足りたそうで、現代とは社会情勢が違いますね。逆から考えれは、たとえば江戸時代のように行商が発達した社会なら外出の必要が大幅に減り、公共交通機関の必要も減るでしょうね。

Re:燃費
雑草Z
原付の燃費、お知らせ頂き有難う御座います。普通自動車の数倍はいいわけですね。50ccカーも軽量化は出来ると思いますが、原付並みでは難しいでしょうか?・・・その分、流線形にして風圧を低くすれば、原付並みの燃費は確保できそうな気がします。
いつも思う事は、自家用車は運ばれるもの(人、荷物)に対して、本体が重過ぎますね。自動車のする仕事の大半は、車体自身を運ぶのに使われますね。
日本で発表される燃費はかなり眉唾ですが、現在、軽自動車でもかなり燃費のいい車が販売になっているようですね。

>たとえば江戸時代のように行商が発達した社会なら外出の必要が大幅に減り、公共交通機関の必要も減るでしょうね。

ある意味、江戸時代のほうが気楽で便利だったかも知れませんね。( guyver1092 さんも、石川英輔氏の『大江戸シリーズ』からの知識でしょうか?)


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2015-01-05 00:01



農業以外の職業と自給的農業を兼業する事が一つの理想形と考えております。・・勿論、その為にはもう一つの仕事もあまり多くなく“ほどほど“である事が必要です。半○半農で、自分(および家族)の食べる分くらいは自分で生産する自産自消が一つの理想ですが、当方が現在行っている作物栽培は、農業と呼ぶにはおこがましく、趣味の家庭菜園程度です。自産自消も程遠く、食卓の足しにしたり、知人にお裾分けする程度です。お裾分けを頻繁に行うようになった事が前進と言える程度です。

日本の都道府県の中で食料自給率が高く、100%に近いのは、北海道と、東北6県くらいです。(北海道は軽く100%を越えています。)東北地方は人口密度も高く無くて(丁度いいくらいだと思います。)自然も豊かです。そんな東北は好きなので、片手間で作物を育てながら、一生過ごそうと漠然と考えていました。
一方、作物を育てる上で、冬の気温があまり下がらず、雪もあまり降らず、一年を通して農業が出来る地域、二毛作、二期作が出来る東北地方よりも南の温暖な地域を羨ましくも思っておりました。
3.11を機に、それまで全く考えてもみなかった西日本の温暖な地域に移住して自給的農業をやる事もほんの少しだけ考え始めました。昨年は関西に行く機会が何度もありましたが、ついでに農地を観に行ったり就農の相談所を訪れたりもしました。温暖な西日本の太平洋側で、原発からも遠い紀伊半島の内陸部が好さげかなと見ております。

一方、他の仕事をしながらの家庭菜園にはちょっと疲れると感じるようになりました。夏場・・・5月頃から11月頃までほぼ毎日何がしかの作業をします。平日は朝6時前に外に出て収穫やら支柱立て、水やりや草取り、施肥等を行って(と言っても毎朝1時間以内ですが・・)から出勤し、土日や休日には、月に何回かは、終日畑仕事をして来ました。(はじめから終日畑仕事をする積りでは無く、食事も取らずに、あと少し・・と思って延長しているうちに日が暮れるまで作業してしまいます・・だから、学生時代のように、その日の最初の食事が夕食・・・と言う日も増えました・・笑)

他に色々やる事もあり、そんなこんなで昨年の秋は、畑に秋野菜の種を蒔くのを止めました。・・・春に植えた作物などの収穫は11月まで続きましたしが、秋蒔きの大根やほうれん草などの、年を挟んでの作業、収穫は無くなりました。

愚図で怠け者だからかも知れませんが、1年中農業をやるのは疲れる、農閑期もいいものだ・・・とこの秋頃から考えが変わりました。
畜産のように、農閑期の無い農業は本当に大変だと思います。

農閑期もいいものです。石川英輔氏の大江戸シリーズあたりに書いてあった記憶ですが、江戸時代は農閑期には夏場に備えて色々行った・・例えば稲藁利用の様々な物を作ったりした・・・民芸品では無く、草鞋とか蓑とかです・・・とあります。雪の中で活動するよりも、そうやって冬籠りするのも悪くないと思います。
また、昔から雪国では、冬場は杜氏として酒蔵に出稼ぎに出ていた農家も多かったようです。杜氏は全て農家からの出稼ぎ、その蔵一番の腕のいい杜氏も農家からの出稼ぎ・・・と言う酒蔵も多かったようです。この伝統は今でも続いています。私の知人でも、夏場は農業、冬場は酒蔵・・・と言う人がいます。ただ、彼は出稼ぎでは無く、冬場も自宅からの通勤です。
出稼ぎと言えば、東北地方や北陸、信越などの雪国では冬場は都会へ出稼ぎに出る農家が沢山いました。東北地方育ちの私は、子供の頃、出稼ぎは他人事の様な感じがしていましたが、ある日(結構大きくなた高校生の頃)冬場に農家の友達の家に遊びに行ったときに、父親が出稼ぎに行っていて正月の後は春に帰ってくる・・と聞いて、「出稼ぎ」を強く実感した記憶が印象深く残っております。
農家の農閑期における出稼ぎは、いつ頃が盛んだったのでしょうか?20世紀初期以前よりも、子供を学校に出したりする為に多額の現金収入が必要になった昭和時代以降に増えたようです。いわゆる高度経済成長時代には都市部では出稼ぎ労働者の需要も多かったでしょう。現在は兼業農家が圧倒的に多く、地方に工業団地も沢山出来たので(過剰状態です。)、出稼ぎはかなり減った・・と言うよりも、農閑期に出稼ぎをするという事自体が無くなったようです。・・・つまり、農閑期の出稼ぎは昭和時代の特徴だったと言えるでしょう。

出稼ぎをしなければならないのならまた話は別ですが、最近、冬場の農閑期は、あったらあったでいいものだと思うようになりました。家庭菜園程度でも、暫し農作業から離れて、春からの活力を蓄える時期があるのもいいと思います。

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【2015/01/05 00:01】 | Economic Fascism トラックバック(0) |

分業と兼業
guyver1092
 1人で何種類もの仕事を持つということは、危険が分散され、何らかの危機が起きた場合のダメージが少ない半面、効率という点で大きく劣り、投入産出比として悪くなるのは避けられないようですね。
 自給という点で、少数の仲間で自給の為の農業をするのがいいかもしれませんね。

Re:分業と兼業
雑草Z
 私の少年の頃からの目標は「専門バカ」でした。色々興味はありましたが、一つの分野で専門バカになるのが、少年の頃から青年の頃までの目標でした。 guyver1092 さんは如何だったでしょうか?
 現在その目標とは程遠い職業に就いていますが、専門バカは未だに一つの理想形だと考えております。

だた、それとは別に、いつ頃からか(そんなに昔からではありません。このブログを始めた頃前後からだと思います。)食料に関しては、自給自足するのが一つの理想形だと考えております。

 一人で何種類もの仕事を持とうとは考えませんが・・・それはそれでやって行けるなら悪くないと感じますが・・・食料に関しては自給自足が一つの理想かと考えています。

>自給という点で、少数の仲間で自給の為の農業をするのがいいかもしれませんね。

それはいい考えですね。でも、15年前の私にそんな事言っても、それはそうだと共感しても、自分はその仲間には入らないだろうと思ったと思います。(汗)

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