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2010-10-29 00:01
~大山祇神社~

昨年11月29日の記事のコメントで HN上々さんから、私の地元会津地方の西会津町野沢に大山祇神社の本社がある事を教えて頂きました。(・・その時まで、神社に本社、分社がある等と言う事もよく知りませんでした。・・)今年中に訪れて報告したいと考えて、この秋、まだ寒くなる前に訪れてみました。

遥拝殿(下宮)は野沢の村の外れにあり、そこから更に山を4kmほど登った所に本社(奥宮)がありました。


 ↓遥拝殿(下宮) 参拝客もまだいます。このあたりには
    みやげ物屋や本社参拝者の為の小さな宿も何件かありました。
大山祇神社1

 ↓参道の入り口   はじめは参道沿いにも民家があって、
            車が一台くらい通れる幅の道があります。

大山祇神社2

  直ぐに舗装はなくなって山道の雰囲気になってきますが、
                      林道の雰囲気です。

大山祇神社3



大山祇神社4

 ↑道沿いの草原に とかげ(かなへび)がいました。
  久し振りに見るカナヘビです。
 カナヘビは小さい頃から大好きで、見つけると嬉しくなります。
 例によって携帯電話のロースペックのカメラで撮影したので、
 10cmくらいの近くから撮影しました。
 

大山祇神社5

 ↑不動滝の所に建っている祠 と 
              ↓不動滝

大山祇神社6



大山祇神社7

  ↑ 不動滝に降りて行く回り道はこのような小道で、山道の雰囲気です。
    やはりこのような道がいいですね。

大山祇神社8

  ↑このような道祖神が何箇所かにありましたが、
   新しく作られたもののようで、悪くはありませんが、蛇足の感もあります。

大山祇神社9

 ↑このような分岐点は何箇所かありました。
 幅広く作られた林道のような道(左)を行くか・・
 人が歩いてしか通れない細い山道のような道を行くか・・・
 勿論細い山道を選びました。
 車も通れるような林道のような道は興ざめです。

大山祇神社10

 ↑細い山道のほうは、
   このように沢を歩いて横切るところもあっていい感じです。

大山祇神社11

 ↑202段の石段・・・この上が本社と思いきや、本社はまだまだ先でした。

大山祇神社12

 本社が近づいてくると杉並木が立ち並んでいます。
 樹齢は500年くらいまであるようです。
 この杉並木の間を歩いて行くのはなかなかいいものです。

大山祇神社13



大山祇神社14



大山祇神社15

 ↑この広い石段を登ると手水舎があり、本社へ登る石段にきます。
 手水舎の豊富な水が石段まで伝わって流れています。
 ↓水の豊富なきれいな清水が沢山流れている手水舎
  今まで見た中で最高の手水舎でした。
  非常に美味しい水でした。
  この手水舎が一番気に入りました。


大山祇神社16



大山祇神社17

  いよいよ本社です。

大山祇神社18



大山祇神社19

 思いの外、小さ目の本社でしたが、
  杉の大木に囲まれて、荘厳な雰囲気を醸し出していました。

CA331673.jpg




 登山というよりもハイキングコースというイメージで、写真を撮りながら歩いても小一時間で本社に着きました。
 午後3時頃遥拝殿を出発した時は、前後に何組かの人がいて、登山の恰好で登っていましたので、当然本社まで行くものだと思っていました。山から下りてくる人にも何人かすれ違いました。しかし分岐点で、広いほうの道ではなく、狭い山道のほうを選んで歩いているうちに、直ぐに誰ともすれ違わなくなり、前後にも人がいなくなりました。本社に着いたときは、そこには誰もいませんでした。帰りも誰ひとりにも遭いませんでした。

一生に一度の願いは三年つづけてお参りすれば、なじよな願いもききなさる「野沢の山の神様」といわれているそうです。
「三年続けて」の意味が、毎年一回三年続けて・・・という意味なら簡単過ぎます。こんな事で願いが叶うなら、楽過ぎます。
「三年回欠かさず毎日」の意味ならば、時間的にきついでしょうが、他に仕事だとか用事が無ければ夏場は大変な事でもないでしょう。ただ、雪が積ったらかなり大変でしょう。
でも、この「3年続けて」の意味は、毎年一回3年続ける・・・という意味でしょう。


 因みに、本社の更に奥の山頂に奥の院が祀られている祠があると、ある方から教えて頂いていました。ただ、その道は知っている人と行かないとわからないし、道も崖から落ちる危険性のある道だと聞きました。この日はその道らしきものもわかりませんでしたが、いつか知ってる方に案内して頂いて奥の院まで行ってみたいものです。


           2010年9月26日 日曜日午後 撮影
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【2010/10/29 00:01】 | 森林木のある風景 トラックバック(0) |

大山祇
上々
良いところですね。杉の大木が何とも言えぬ雰囲気です。
門前には店もあり結構繁華な神社のようですが、奥まで行く人はいないかな。
「出会い」という言葉を見てなぜか熊との遭遇を思ってしまいました。今年は危なそうですが、そちらは大丈夫でしょうか。北陸は相当出ています。

さて、途中の滝は不動滝とか、実は母の実家の近くにも不動滝と言う大きな滝があります。調べてみたら全国に100以上の不動滝があるようです。滝の雰囲気がなにかお不動さんを思わせるものがあるのでしょうか。

山菜採取禁止の立て札で、よく採れるということが判っちゃいますね。

Re:大山祇
雑草Z
    上々さん、


 杉の大木は、今年7月29日にアップした隠津島神社のほうが大きく高いのがありましたが、杉並木の長さは断然こちらの大山祇神社の参道のほうが多かったです・・・何せ長い道ですから・・・つまり杉の木の数も大山祇のほうが遥かに多かったです。本社が近づいてきてから、500mくらいは大きな木の杉並木の細い山道が続いたような記憶です。・・杉並木というよりも杉の森に細い山道が付けられていた・・という感じです。

 門前のお店は写真に写っているところばかりでなくもっとありました。夏場の午前中から昼頃はもっと混んでるのではないでしょうか?
 私が登り始めたのが午後3時頃ですから、他に本社まで行く人がいなかったのでしょう。でも、登り始めの頃すれ違った人達はきっと本社まで登って来た人でしょう。昼前に登り始める人が多いのだと思います。
 山登りの感覚ですから午後、夕方近くから登る人はあんまりいないのでしょう。

 熊は今年は会津地方でも結構出ています。ついこの間も私の住む町の山の近くで熊が出た事がニュースになっていました・・・確か全国版でも放送した記憶です。今年は山のクヌギとか餌になるものが少ないようです。

「不動滝」という名の滝は会津地方だけでも何箇所か有ります。今年の1月29日の記事の写真も小さいながら不動滝です。
 
確かに山菜取り禁止の立て札は逆効果の面もあるでしょうね。
 ・・・ちょっと話はそれますが、無駄な公共工事の典型である広域林道などを作って、地元の人も山菜取りが便利になった・・・などと説明していますが、実情はよそから車で山菜取りに来る人が増えて困っているようです。おまけにゴミの不法投棄場にもなっています。本当に迷惑な自然破壊の公共工事です。

 
 素晴らしい神社のご紹介有難う御座いました。地元にこんな凄いところがあるとはご紹介されるまで知りませんでした。
地元では、「おおやまのかみ」とも呼んでいるようです。
「祇」の字は「かみ」っても読みそうですね。
 


上々
大山祇神社は山の神でもあり、海の神でもあり、戦の神でもあるので相当守備範囲は広そうです。
祇の字は祇園の祇でもあります。

参拝する方々はよくわかっていて奥まで行くつもりの人は朝早くから来られるのでしょうね。それも若いうちだけなのかも。年を取ったら麓だけであきらめざるを得ないのでしょう。無理に車で連れていくというのも良し悪しになります。
車で行けるようにしてしまったら雰囲気もおしまいでしょう。

さて、熊ですが元々どんぐりの裏作の年に当たる上に猛暑で相当量が少なくなっているようです。かなり腹を空かせているせいか、いきなり人間に襲いかかる(ように見える)場合も多く、射殺される熊も相当数に上っています。かわいそうなものですが、自分が出会う可能性もありますので、そうとばかりも言っていられません。

不動滝の名前の由来として、近くに不動尊の祠があるなんて紹介してある所もありますが、これは逆でしょう。不動滝と言う名前をつけたので祠を作ったと言う可能性が強いと思います。やはり滝の形状から連想されたのでがないかと思います。長野南部の不動滝も、この写真のように高く、水量も多い堂々とした滝です。

湧水の手水舎が素敵です
でなしNo.146
手水舎が湧水で、しかもその水が美味いとは、すばらしい神社ですね^^

最近になって、あるお方に利き水を教えられたせいか、水道水と湧水の違いがバッチリわかるようになりました。

美味い水を飲むと体の調子が良くなります。
(プラシーボ効果ですかね^^;?)

神社の杉の木も荘厳でいいですよね。
個人的には、杉がにょきにょき立っている風景が好きで神社めぐりをしているフシがあります。
(今は新潟県の神社仏閣をめぐっております)

社と杉の清浄な雰囲気や荘厳な雰囲気は、守るべき日本の文化です。
こちらの某神社においては、観光のためなどの理由で、本社のすぐ横や鳥居と参道の間にアスファルトの道路が通っているのをみると残念な気持ちが湧きます。

Re:祇
雑草Z
>山祇神社は山の神でもあり、海の神でもあり、戦の神でもあるので相当守備範囲は広そうです。

「大山祇」 だから、単純に山の神と思ったら、そう簡単ではないのですね。『祇』の字は、氏神を祀るの意、土地の神の意味のようですね。

>参拝する方々はよくわかっていて奥まで行くつもりの人は朝早くから来られるのでしょうね。

そのようです。登山の恰好であったり、修業の恰好であったりします。かなり前から熟年登山が流行っていますが、百名山登山などと比べたら遥かに楽だと思います。

>車で行けるようにしてしまったら雰囲気もおしまいでしょう。

おっしゃる通りです。それは止めて欲しいものです。広いほうの道はやっと車が通れるくらいの幅があります。ジープタイプの車でないと難しいでしょうが、神社関係者や工事関係者は車で登っているのかも知れません。

>不動滝の名前の由来として、近くに不動尊の祠があるなんて紹介してある所もありますが、これは逆でしょう。不動滝と言う名前をつけたので祠を作ったと言う可能性が強いと思います。

>滝の形状から連想されたのではないかと思います。

ああ、なるほど、言われてみればそうですね。
あの男性的で逞しい滝の感じが不動明王を連想するわけですね。 

Re:湧水の手水舎が素敵です
雑草Z
そうなんですよ、でなしさん。

 この手水は後ろの崖の間から沸いてくるのですが、水量もかなり多く、樋の中を流れて手水になる以外にも多くの湧水量があり、写真左手のようなきれいな泉になっています。樋を伝わって手水になった清水も、どんどん出てくるので、水が溢れ出ています。

 ここの湧水はかなり美味しいので、いつか機会があれば他の会津の美味い湧水と比べてみたいと考えています。今のところ一番おいしいのは磐梯の龍ヶ沢湧水などです。それと同じくらい美味しく、長持ちする湧き水かも知れません。
 因みに売っている水は、効き水で比べればわかりますが、かなりまずいです。美味しいと評判の地域の水道水などと比べても断然不味いですよ。水道水よりも不味い水を買ってまでよく飲みますよね。

 この大山祇神社は、新潟県境にある西会津町にありますから、新潟からは行きやすいでしょう。是非本社まで訪れてみて下さい。わかれば奥の院まで探検すれば面白いでしょうね。
 そしてこの素晴らしい手水を飲んできて下さいませ。
 汲んで持って来たいとも思いますが、片道4kmです。リュックを背負って、20ℓくらい汲んできたいところですが、水を汲んだ後の帰り道は重労働でしょうね。・・それだけの事をしても汲んでくる価値のある湧水かも知れません。清水としては全然有名でなく、殆ど人に知られていないのがいいですね。

清水
上々
google mapで付近の地理を拝見しましたが、あの環境なら水質に問題ないかもしれません。
湧出量が十分ならさほど汚染もされないと思われます。
ただし、容器が汚いとすぐに悪化しますので注意を。

全国数々の名水がありますが、そこに小汚いポリタンクを持って行って汲んでいる人を見るとぞっとします。中にはそれを使って食べ物商売をする人もいるようで、くれぐれも十分加熱する食品だけに限ってほしいものです。

長持ち清水
雑草Z
上々さん

付近の地理をみて水質を判断出来るなんて凄いですね。

当方は清水汲みはかれこれ8年くらい続けています。
会津地方の磐梯町には、強清水[こわしみず]という有名な清水がありますが、残念ながらそれほどいい水ではありません。味も今一ですし、汲んで一週間ほどで腐り始めます。
 一方本当になかなか腐らない水が存在します。(塩素や農薬がたっぷり入っているわけではありません・・笑)
 私が同僚から「冷蔵せずに一年以上腐らずに持つ」という清水の話を聴いたときは信用しませんでしたが、試しに汲んで密閉しておいて1年以上置いても飲めました。
 その方のお話によると地下に何十年も寝ていた清水だそうです。硬水で有機物を含まないから長持ちするのでしょうか?・・上々さんのご意見をお聞かせ下さい。

 

湧水
上々
水質判断なんてとんでもない。ただ、上流に民家があると地下水と言えど汚染されている可能性があるかと思っただけです。
水が腐るかどうかというのは、細菌が入り込む可能性があるかどうかと栄養素があるかと言うことです。
有機物があるともちろんだめですが、無機イオンがあってもそれだけで生育できる細菌があり、その菌が生えてくるとその代謝物を使って他の菌も生育し、一気に腐って来ると言うことになります。
したがって、汚染菌がある状況では硬水(マグネシウム・カルシウム等が多い)の方がかえって腐りやすいかもしれません。
おそらくRO水(逆浸透膜でろ過した純水)の方が当然腐りにくいでしょう。

また湧出量も大事で、阿蘇の湧水池なども人里の中にありながら大量の湧出量があるため汚れも薄まるせいかなかなか腐らないということもあります。

それよりもとにかく汲んでくる容器ですね。きれいに洗うのは当然ですが、殺菌までできるといいんですが。

腐らない水の保存の仕方
雑草Z
>無機イオンがあってもそれだけで生育できる細菌があり、その菌が生えてくるとその代謝物を使って他の菌も生育し、一気に腐って来ると言うことになります。

なるほど、そういう事ですね。よくわかりました。有難御座います。上々さんは、キノコやカビなどの菌類だけではなく細菌類にもお詳しいのですね。


 会津地方の昭和村には、銘水が10か所以上御座いますが、そのうち2か所は1年以上腐らない水です。もう少し近くの今年から汲み始めた磐梯の銘水である龍ヶ沢湧水も、まだ1年以上は試していませんが、1ヵ月以上は持ちました。(夏場に1ヵ月以上持つ水は1年以上大丈夫なようです。)

 さて、私が清水を汲んでくると、よく知りあいや親せきにお裾わけしていたのですが、そのうち3,4件は私が汲む清水の固定客になり、毎回沢山お裾わけしています。そのため最近夏場には月に2回くらいのペースで汲みに行かなければ追いつきません。
 家ではペットボトル飲料はあまり飲まないのですが、長年かかって2ℓペットボトルを中心に集めて頂き、200本以上集まりました。それぞれの家で清水を飲んだ後は、口を逆さにして水を全部切るように置いておいて頂き、キャップはキャップで別に洗って保存して頂いております。ポリタンクで用意される方は熱で煮沸消毒されて乾かしてからキャップを付けて私に渡しています。

 汲む方の当方は、空気が残らないように、キャップの口ぎりぎりまで水を入れるように工夫をしています。

 やはり汲む場所が一番大切ですね。何故か美味しい清水は腐りにくい水が多いようです。・・しかしやはり汲み立てのほうが美味しいですね。数か月経つと不味くなります。売ってる水が不味いのはそれも原因でしょう。水が美味いか不味いかは、同じ温度にして同時に同じようなコップに入れて飲んで比べればわかります。 

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2010-10-23 00:01
~電化社会の人間性への影響~

人間の生活はどのようにできているか。改めて考え直してみると結構複雑で大変な問題を抱えていると気づきます。
それでは、一日の生活を考えてみましょうか。外での仕事のことを考えると複雑になり過ぎるので、仮に専業主婦の女性としてみます。
まず、目覚まし時計が鳴って目を覚ます。
家族の朝食の準備、(一応和食党とします)ご飯は炊飯器で夜にタイマーを入れておいたのができている。味噌汁の具になるものを冷蔵庫の中から出す。
IH調理器で鍋に湯を沸かし味噌汁作成。同様にアジの干物を冷蔵庫から出して焼く。
家族を起こして朝食。テレビを見ながら。段々暑くなってきたのでクーラーを入れる。
朝食が終わったら家族が出勤するのを送り出す。
食器の片付けは食器洗浄機に放り込んで終わり。その後、洗濯に取り掛かる。
衣類を洗濯機に放り込んだら、掃除の開始。掃除が終わった頃には洗濯も終わっているので干す。
この辺まで終わるとだいたい10時過ぎになるので、一段落でテレビを見ながらお茶を飲む。優雅です。
昼は一人なので、適当にあり合わせで食事を済ます。
午後は夕食用をメインに買い物に出かける。安いものを探すので、結構何軒も店を周り時間もかかる。
帰ってきたら乾いた洗濯ものを取りこんで、片づけ。アイロンがけも済ませてしまう。
その後、夕食の支度。
そうこうしているうちに家族が帰宅。夕食がすんだら順番に風呂に入る。電気温水器でふんだんにお湯が使える。
テレビを見たり、インターネットを見たり、子供などは友達へのメールに夢中。
遅くならないように適当な時間に就寝。暑いのでタイマーでクーラーをつけておく。
~こんなところでしょうか。
通常の現代日本人の家庭生活と思いますが、隅々まで電化製品が入り込んでいるのが分かります。

50年前の日本人の家庭ではどうだったでしょうか。まだクーラーやテレビは言うに及ばず、ほとんどの家庭には冷蔵庫、洗濯機もありませんでした。一応、ラジオと電灯だけはあったものとしましょうか。ガスも使えたことにしましょう。(薪で煮炊きをした当時のことは私も知りません)
朝はゼンマイ式の目覚ましで目を覚ます。時間はかなり早め。
家族の朝食の準備、(当然和食のみ)米を洗い、ガスで炊く。炊きあがるまでの間に味噌汁を作る。冷蔵庫は無いので入れられるのは乾物だけ。
干物はなんとか前日夕方に買っておいたものが食べられるので焼く。
家族を起こして朝食。ラジオを聴きながら。暑くなってきても仕方がないのでそのまま。扇風機もまだありませんでした。
朝食が終わったら家族が出勤するのを送り出す。
洗濯を始めるが、大変なので汚れのひどいものだけ。そうでもないものは毎日は洗えない。たらいに洗濯板を使い石鹸をつけてごしごしと力を入れる。
洗濯が終わるまで相当時間がかかる。
終わり次第掃除もするが、箒を使い、雑巾で拭く。これも体力勝負。
している間に早くも昼。あり合わせで昼食を済ます。
午後は買い物へ。買い置きができないのでその日に食べられる分だけ買ってくる。
あわただしく洗濯を取りこんだらすぐに夕食の準備。
風呂も手すきな時に沸かす準備をしておく。ガスになっていて本当に良かった。
夕方には家族が帰宅。夕食、風呂。
ラジオを皆で聞いたら就寝。暑くて寝苦しくても仕方ない。
~本当に昔の家事は大変だったろうと思います。これで子供の世話まであったらすごいものです。とてもこれを終わらせてからパートでも外に仕事に行くなどと言うことはできません。

しかし、昔も裕福な人たちはこのような苦労をしないで済んでいました。50年前の日本でいえば「お手伝いさん」を雇うという手です。それ以前の日本では「下男下女」です。もっと前や他の国では「奴隷」を使う場合もありました。そういう人達は現代の日本人と同じような(まあ冷房や冷蔵庫はありませんが)生活を楽しむことはできたのですが、もちろんそれをするためには多額の費用が必要でした。またいくら金持ちであっても、無人島の一人暮らしではできず、そういった人間が居なければできないことです。そういった本当に「贅沢」(他人の人生を自由に使う)をすることはごく一部の人達にしかできなかったのです。

今は一昔前に使用人にさせていたことを電化製品にさせることができます。まあタダではありませんが、人に給料を払うことを思えばはるかに安価にできます。実際にほとんどの人が程度に差はありますが実施可能と言えます。さらに電気には人ではできないこと、例えば氷と同じ位の温度にしたり、部屋を涼しくしたり、別世界の風景を見たり、遠く離れた人と話したりすることができます。

昔の王侯貴族の生活が広く普通の人間にもできるようになり、どう変わったのでしょうか。家事労働に対する重みが極端に軽くなりました。それまでは専従として家事に縛り付けてられていた女性たちが解放されました。もちろん現在でも質の良い家事を行なうことは電気仕掛けでは不可能で、専業主婦の方々も決して存在価値が無いわけではありません。
しかし、なんとか暮らしていければ良いやと言う程度の生活でしたらなんとでもなります。

その結果、女性の社会進出が進みほとんどの主婦が兼業化しました。ただし、出産と子育てはまだ機械化は無理なのでその段階の女性が家庭に戻ることが問題化しています。キャリアの中断、正社員から非正規雇用へ、託児施設の問題等、社会として考えるべき問題が山積みです。それも関係し、労働対価のデフレが進みました。兼業主婦層は安い賃金でも働きたいと言う欲求が強いため、全体として賃金が下がっていきます。それが兼業主婦の配偶者層にも広がってしまい、結局一家の収入を賄うためにはいやでも主婦が働きに出ることが必須になりつつあります。(この辺の筋道、逆と思っていませんか?)
そのため、家庭に残る主婦は社会からの疎外感を植えつけられるようになってしまい、ますますこの動きは加速されます。NHKの連続テレビ小説の視聴率が下がり続けているのが話題になりますが、ドラマの出来の良し悪しは関係なく、それを見る視聴者が居なくなったのが主因です。

女性が一人の人間として社会に出て行けば、そこでの人間関係は家庭とは独立しており、それをうまくやりくりすることが必要になります。これまでは家庭内で家族の中だけで人間関係を築けばよかったのが、はるかに複雑になります。
結局、パートやアルバイトでも働きにでれば個人として生きて行ける能力(金を稼ぐ能力、それにまつわるもろもろの能力)を厭でも身に着けざるを得ず、それを身につけてしまえば結果的に一人でも生きていけることにはなります。それで配偶者や家族に嫌気がさせば離婚に至るのも簡単な話で、離婚率が上昇するのは当然でしょう。
機械を使いこなして生活していけば他人に対する依存の必要度も薄れます。家族ばらばらというのも避けられない事態でしょう。結婚生活についてのいろいろと大変な話を耳にするようになれば無理に結婚しなくてもいいかと思う若者が多くなるのも当然でしょう。

なお、家族といっても50年前だったらせいぜい3世代プラスアルファ程度でしょうが、もっと前の時代になると一つの家に同居する家族(使用人と言う他人も含め)はもっと大きな範囲のものでした。これはそれだけ人間が集まらなければ生活できなかったためと言えます。
最初に上げた50年前の例の程度であれば、一家で一人の主婦が働けば5-6人までくらいならば賄えたかもしれません。しかしさらに昔の水道もない、ガスもないと言う状況であればその要員も必要となり、家事に費やす人数が多くなり一家の範囲も広くなければいけなかったわけです。
それが段々と少なくなっていき、ちょっと前の「核家族」と言われた段階を通り過ぎ、とうとう一人一人の段階まで来てしまっただけのことかもしれません。便利になったから家族がバラバラになってしまった。それだけのことでしょう。

しかしご安心ください。電気が安かったのはほんの一時の地球の気紛れと言える条件のためです。今の電力事情では発電は石油・天然ガス・石炭・原子力がほぼ拮抗し、水力がわずかな割合を占め、太陽光発電・風力が冗談程度の発電量を示していますが、石油も供給減少が予想され、天然ガスもそれに続きピークを過ぎます。
石炭はまだある程度は存在するものの、エネルギー源がそれだけと言うことになると購買競争となり価格高騰につながります。原子力はある程度は続きますが、ウランも供給能力に限界があります。

電力供給は無くなりはしないものの、かなりの電気料金高騰につながる可能性が強いと言うことです。そうなれば普通の家庭でふんだんに電化製品を使うわけにはいかなくなります。省電力製品はできますが、段々と一般家庭の家電製品は減っていくでしょう。そうなれば家事労働にかける時間も増えて行き、誰かがそれを担当しなければならなくなります。家族の役割と言うものが復活して行くでしょう。
そううまく行くでしょうか?電気料金の高騰化の速度次第かと考えられます。下手をすると家族復活の前にかなりの人間が死に絶えてしまう事態もあり得ると思います。
電気料金が10倍になった時にどういう生活をしていくか、本気で想像してみる必要があるかもしれません。

最後にこういった罠を仕掛けたかのような「電化社会」、それこそが本当の「電化社会の罠」なのかもと思います。


* *** ***** ******* ********* ***********


 以上、ここのサイトに沢山のコメントを頂いている HN 上々 さんに執筆して頂いた記事です。
 内容は、「人手を代替する電化製品」についてだけです。
テレビ・パソコン・インターネット等、情報関連の電化製品についてはまったく取り上げておりませんが、そちらにも大きな問題点があります。その問題点についてもまたの機会に書いて頂けるかもしれません。
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【2010/10/23 00:01】 | Economic Fascism トラックバック(0) |


団塊おやじの遺言
レベルの高い皆さん考えに必死で見ている私・・
多少頭から煙が出て来て来る問題も・・判り易く 
    ありがとうございます

今の世の中 生活は便利になっているのか?
大型店舗が商店を駆逐し 気づくと周りにはシャツター商店街が
買い物は車が無ければ難しく年寄りや体の弱い人たちには生活が難しくなって来ている様な・・
大手の若手の社員たちもマニュアル化され、まるで個性の無い社員を創りだそうとしている
なんだか今の世の中 ロボットの社会へ向かっている様な??
生きる為の必要な物資を揃えなければ生活の出来ない社会に

昔は近所に魚屋や八百屋・豆腐屋が在り配達してくれたよね~ 
そして家族が一緒にご飯を食べ 皆で銭湯に行ったりね・・
そうそう・・醤油や米や油が切れたのでチョット貸してとお隣さんが・・
良く来たもんだな~人の付き合いは 今とは違うよね
こんな今の社会は 人の絆が無い 個性が無い 面白く無い

人間の社会の豊かさは人との絆から まずは我が家からお隣さんへ・・

雑草さんコメントのレベルが低くて ご免ね~ 

どこまで脱電化するか・・
雑草Z
改めて、現代人は、電気によって便利になったとともに、如何に極端に電気に依存しているかを感じました。最近のエネルギー開発は電力確保が主な目的です。その為の原子力なんて愚の骨頂です。原子力は直ちに封印すべきです。

 もうこれ以上の電化の必要がない段階まで来ています。オール電化住宅や電気自動車など過剰ドーピングの状態です。

 オイルピークによる石油の高騰、供給不足などにより望む望まざるに関らず、現在のような大量電力消費時代は幕を閉じる訳ですから、早くから省電力化、脱電力化を進めなければならないでしょう。電源確保の以前に、不必要な電気の使用をストップする事から始めるべきでしょう。
 

近所の店
上々
団塊おやじさんの指摘された、近所の店というのが無くなってしまったのは「車社会の罠」の方ですね。
今から20年以上前に価格破壊と言う掛け声で安売り店が大規模に各地に進出して行きました。これらの店は仕入れの改革とか、店に金をかけないと言うことはありましたが、自動車で来店する客を広範囲に集めると言うことが共通しています。
徒歩や自転車程度で来られる客の人数は町の真中と言えどそれほど大したものではありません。
それが車利用ということで場合によっては数十キロも先から来店してくれれば対象人口は格段に増加しますので、安売りしても販売量でカバーできるわけです。

そのあおりで近所の数百人を対象としているような小規模商店は軒並み潰れて行きました。販売量が少なくても最低店主一家が食べて行かなければならないのである程度の利潤を乗せなければやっていけません。
販売価格が高くなるのも仕方がないことですが、それが歩いて行けるところに店のある価値と思えば当然かもしれません。

これも自動車移動が当然では無くなる社会になった時は崩れ去ります。まあ商人は機を見るに敏ですから、車に乗らない人相手の商店はすぐに復活していくでしょう。

現に、熊本県の我が家のある町では郊外の大規模スーパーは売り上げが伸び悩んでいますが、街中に比較的小規模の食料品専門のスーパーが何軒か開店してきています。
都会でも駅前のスーパー等が復権という兆しもあるようです。
もう一歩進めば個人商店の何でも屋も出てくるかもしれません。コンビニがそれに近い業態になってきていますが、コンビーニエンスの看板を下ろさなければやりにくいでしょう。

Re:近所の店
雑草Z
>熊本県の我が家のある町では郊外の大規模スーパーは売り上げが伸び悩んでいますが、街中に比較的小規模の食料品専門のスーパーが何軒か開店してきています。

へえ~っ・・・そんな潮流が出始めているのですね。言われてみれば確かにそのような例は見た事があります。どういう理由なのでしょうかね?私の住んでいる福島県の会津地方では、いまだに田舎の昔ながらのよろず屋が頑張っている例も結構ありますが、経営は大変になってきているようです。

>コンビニがそれに近い業態になってきています

確かにコンビニが地元のよろずやの現代版ですね。ただ、全国一律で同じチェーン店なら金太郎飴状態で、店による個性差があまりないですね。

>コンビーニエンスの看板を下ろさなければやりにくいでしょう。

これはどう云う理由によるものでしょうか?



団塊おやじの遺言さんのおっしゃるように

>人間の社会の豊かさは人との絆から まずは我が家からお隣さんへ・・

ですね。それが古き良き時代の”過去”になってしまわないで欲しいものです。



逆説
guyver1092
>結局一家の収入を賄うためにはいやでも主婦が働きに出ることが必須になりつつあります。(この辺の筋道、逆と思っていませんか?)

 現代の合理的思考により導き出されたあることを行うと、次から次へと、いろいろ問題が発生するというアレですね。石川英輔氏の本でも読んだことがあります。氏は現代文明は個々のみを見ると合理的ですが、社会全体でみるとどうにも非合理で仕方がないと言っています。
 この核家族化は、不動産の値上がりにも影響を与えていると読んだことがあります。核家族化して、家の数がそれまでより多く必要になったことを理由として土地神話ができたとか。
 他にも、農業就労者を工場労働者に変えるためとか、農業用水を工業用水に振り替えるためとか。




ご意見御礼
上々
いろいろご意見ありがとうございます。

私の家のあるのは熊本県南部の都市ですが、大資本スーパーの進出で、よろずや的な商店は言うに及ばず、地元資本の中小スーパーも閉店するところが多くなっていました。
最近の街中スーパーは地元資本ではなく大手傘下ですが、業態を変えているようです。また地元スーパーでも今まで生き残っているところは息を吹き返すかもしれません。

コンビニの看板というのはどこでも同一の商品を買えること、また日に数回の納品で常にフレッシュな食品を買えることということです。これを降ろせば、実際に経営している人もほとんど以前からの商店主ですし、そのまま昔のよろず屋に移行できます。その方が良い場合もあるかもしれません。

家の居住環境は、昔と比べれば大型化しており、ウサギ小屋が○○小屋(ちょっと適当な動物名が思い当りません)に拡大したのかもしれません。都会の真ん中ではまだ狭いところが多いでしょうが、都会でも郊外や地方に行けばかなり大きな家があります。外国と比べればまだまだでしょうが、少しずつ広くなっていると思います。その少しの拡大も集まれば大変な面積拡大になり、都市規模の拡大につながります。
これが結局自動車の必然性にもつながってくるわけです。

Re:逆説
雑草Z
>現代文明は個々のみを見ると合理的ですが、社会全体でみるとどうにも非合理で仕方がない

なるほど、そういう事は現代社会には沢山ありますね。・・でも、個々のみ見ても物凄い不合理もあって、どこが「合理社会」かわからない部分もありますね。

核家族化は結局経済成長の為であったと考えられますね。
でも、土地神話が崩れたように、経済成長神話が崩れるのも時間の問題でしょうね。

   * **   ****    *****
『逆説』って面白いですね。
guyver1092さんなら色々面白い逆説の例を知っていそうですね。


電化の歴史
岩蔵テルテル
こんばんは。お久しぶりです。

大学の文系科目に「電気技術史」という授業があったのですが、そこで日本の電化について面白い話がありましたので紹介します。

日本での電気技術導入は明治時代で、はじめは都会の電灯から始まりました。このころは発電所は複数、小規模、そして都会にあり、「電力会社」ではなく「電灯会社」と呼ばれていました。その後、電灯ネットワークは徐々に拡大、そして高電圧送電の発達により、大規模火力発電所や山間部の水力発電所が建造されるようになり、国内各地に電灯が普及していきました。
しかし、電灯の電気需要はほとんど夜間のみだから、大規模火力発電などでは経営効率を上げるため昼間の電気需要を掘り起こす必要がありました。電灯会社が電力会社に「進化」しようとしたのです。
そこで、当時は「動くものにモーター、熱が必要なものに電熱線」と、それまでの日常道具ありとあらゆるものを電化製品として開発されていきました。初めは扇風機や電熱こたつ等の簡単なものでしたが、次第に高度なものが造られました。
洗濯機は、それまでの洗濯が「外からの汚れを落とす」という美観目的であったのを「内からの汚れを落とす」という衛生目的に変化させました。
電気炊飯器は、発売当初は「主婦たるものが寝ている間にご飯が炊ける道具を欲するなど恥ずべきもの」としてなかなか受け入れられなかったそうです。
このような電化製品の庶民、特に都市部中間層への浸透には大正から昭和の官民による生活改善運動が大きく関わっているようです。これには「時間厳守で効率的な仕事を」「西洋文明に親しめ」「家族だんらんを楽しめ」等がありましたが、その中に「電化製品で文明的で衛生的な生活」をすることが推奨、宣伝されました。これは都市化や女性社会進出が進む中での新しい秩序作りの一環だったのでしょう。
その後、戦争で技術進歩は少し停滞しますがすぐに高度成長に入り今に至っています。
結局、電化製品の普及は人間が便利な生活を求めて言った結果ではなく、技術の進歩に合わせて引きづられるように起きてきたもののようです。
洗濯機はそれまで洗濯していなかった服を洗濯するようにし、炊飯器はご飯が簡単に炊ける分の食卓のおかずの種類を増やすことになり、掃除機により今までより頻繁に掃除することになりました。電化製品は主婦の家事労働を簡単にしましたが、種類や頻度を増やし、労働時間は今も昔も大して変らないみたいです。

そしてここからは私の感想ですが、現在は電化の波第2段階のようです。集積回路技術の進歩で今までの電化製品ありとあらゆるものにマイコンをつけてユビキタスとやらにしてみたり、家中オール電化にしたり、自動車を内燃機関から電化したり。これらは原発の夜間余剰電力を利用させるための気がしてなりません。歴史は繰り返しているようです。。。

長いコメント失礼しましたm(_ _)m

Re:電化の歴史
雑草Z
 電化の歴史もしっかりとそのような観点から見ると面白いですね。

>発電所は複数、小規模、そして都会

という程度がいいのかも知れません。

>昼間の電気需要を掘り起こす必要
>「動くものにモーター、熱が必要なものに電熱線」
>官民による生活改善運動
>電化製品の普及は人間が便利な生活を求めて行った結果ではなく、技術の進歩に合わせて引きづられるように起きてきたもの

経済成長戦略そのままですね。面白い歴史のお話有難う御座います。このような内容の長いコメントなら歓迎です。

>これらは原発の夜間余剰電力を利用させるための気がしてなりません。

その通りでしょう。フットワークの重い原発の出力は変えるのが大変ですから、いつでもほぼ定量の発電をすることになり、その利用として色々考えだされている事は明らかですね。本末転倒もいいところです。原発ほど人間の愚行を思い知るものも無いですね。

電化あれこれ
上々
岩蔵テルテル様
本編文責の上々です。ご意見ありがとうございます。
電化の進行が急激なためか、その過程を知るのは私達50代が最後かと思いますが、それでも電気炊飯器普及の際に主婦の方々が抵抗したと言うのは知りませんでした。
まあその当時の主婦層は私の母の世代よりもっと年上で、祖母の世代でしょうから、そういうこともあったかもしれません。明治生まれだったですから。

さて、電化が進んでも家事労働が減らないかどうかは、家庭により様々かと思います。電化機器の助けを借りて家事が高度化している家庭もあるかと思います。洗濯もそういえば昔はそれほど毎回していませんでした。母なども汚れがひどくなければ洗わず、あまり洗濯しすぎると生地が傷むとか言ってましたが、大変だっただけかもしれません。
ただし、現代の共働き家庭などではほとんど手抜き家事が横行しているところもあるようです。そういった家庭は電化製品が使えなくなれば一気に立ち行かなくなりますが、当分は大丈夫でしょう。

電化製品のIT化については高機能化もありますが、だいたいは不要な機能ではないかと思います。使いどころを探してあちこちに手を出しているような。

石油社会は先細りなのは確かですが、電化社会はまだまだ続きそうです。その続け方というのは本気で考えて行かなければいけないはずです。

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2010-10-17 00:01
 人間は楽観的な部分と悲観的な部分とを両方持ち合わせています。その割合は人それぞれで、楽観的な部分が大きい人がオプティミスト[楽観主義者)]、悲観的な部分が大きい人がペシミスト[悲観主義者]と呼ばれます。しかし実際は人をどちらかに固定する事は出来ません。環境の変化によって・・時と場合によって・・一人の同じ人間がオプティミストになったりペシミストになったりします。
私自身その両方を持ち合わせていて、どちらにも固定は出来ません。基本的に楽観主義は沢山持ち合わせていると思います。しかし、環境問題の厳しい現実や成長主義の破局性を知ってしまってからは、現代社会に対して悲観的な部分を大きく持っています。どう考えても、現代社会の開発や工業化、経済成長主義は破局へ向かって突き進んでいるからです。子供時代のような基本楽観主義ではなくなりました。一方、社会構造の現実に悲観するようになって、個人的な事に対する悲観は減ってきたようです。社会があまりに酷い構造であるから個人的な事など些細に感じてしまうからでしょうか。

 現在のように基本的な社会構造をそのままにしておいて、小手先の環境対策・・環境対策商品に補助金を出したり、大量に作ってリサイクルしたり、環境フェスティバルを開いたりしても根本解決になる筈もなく、逆効果であったり問題を先送りしているだけですから、悲観的にならざるを得ません。しかしあくまでここで述べている事は悲観論ではなくてシビアな現実です。つまり、ここのサイトでは、現代文明に対してかなり辛辣に批判して、破局に向かっている事を述べていますが、それはシビアな現実を大げさに煽っている積りは毛頭ありません。現実を直視して考察した結果です。・・・勿論定量的な事は正確に予測できる筈は御座いませんが、定性的な事は大筋で間違っていないと思います。

 だからシビアな事をしょっちゅう描いています。悲観論からは何も生まれない・・・と言う方がいます。確かにそれは一理あります。しかし、深刻な現状を知らずにお気楽に、話にならないどうしようもないような小手先だけの対症療法的な対策を打ち続けても、現状は破局に近付くばかりです。そんな盲目的な似非楽観主義が蔓延っているから、「持続可能な開発」とか「新経済成長戦略」とか言う怪しい戦略が次々に現れて、これまでの路線とちょっとだけ内容を変えて、根本的な事は変わっていない破局への道を辿り続けているのです。
 いまだに道路建設もダム工事も毎年どこかで行われ、もう十分過ぎるほど固められた地面が更に過剰にコンクリートやアスファルトで固められ、植物が生えられない地面にして生態系を破壊し続けています。世界中で森林伐採も進み、海も川も湖沼も汚染され続け、毎年数え切れないほどの生物が絶滅しています。・・非常に深刻です。

極端に負の部分しかないと言える原子力発電もいまだに止まりません。止まるどころか、地球温暖化対策の名目で、またどんどん計画が進行しています。一方で、放射性廃棄物が増え過ぎて、もうどこにも持って行きようが無くなっています。だから「プルサーマル」と言う、再処理の名のもとに一時凌ぎの核燃料の再利用を始めました。・・・その結果ここから出る放射性廃棄物は一段とレベルが高い超高レベル放射性廃棄物となってどんどん量産される事になります。・・・たかが発電にこんな酷い放射能を出す事が許される筈が御座いません。・・極めて深刻です。

 このような深刻な現実は枚挙に暇が御座いません。これらの環境破壊、環境汚染が複合的に襲って来ているのです。・・・環境問題に関しては、現状を把握していれば楽観的ではいられる筈が御座いません。・・・どれもこれも、経済の為・・と言うどうしようもない経済成長フェティシズムによるのです。
 悲観主義から述べているのではなく現実を直視して理性で考えれば非常に深刻であるのです。だから、それらのシビアな現実を発信続けるのです。それが悲観論と映るとすれば、現実を直視しいないからと言わせて頂きます。このまま行けば、非常に悲惨な環境カタストロフィーが待っているのですから・・。先ずはその現実をしっかり見据えてから、進むべき方向を考えなければ、小手先の対症療法的な効力のない対策で、ただ破局に向かって突き進むだけです。
先ずは深刻な現実を直視する・・・そこから考え始めなければ持続可能な社会にシフトは出来ないでしょう。そして本当の現実を直視すれば、先ずは成長路線を脱する事に合意が得られるでしょう。そのシビアな現実に、勿論悲観的にならざるを得ない部分はありますが、それは結果であって、ここの記事は悲観主義から発信しているのではありません。

 遠くない将来に、経済成長路線は破綻し、脱成長路線が主流になってくると予測しています。・・これはオプティミズムかも知れませんが、その時まで破局しない事を願っています。
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【2010/10/17 00:01】 | 思想・価値観 トラックバック(0) |

悲観論
上々
私なども傍から見ると悲観論者に見えるのでしょうね。
悪いことを予想するのが悲観論で、良いことばかり考えるのが楽観論ならどちらも現実的ではありません。

どのような事態になって行く可能性があるかを場合ごとに考え、それに備えて行かなければいけないので、あり得る事態とその起こる確率を想定する必要があります。
例えば原子力発電ではそれ自体の炉心事故(チェルノブイリ)は起こった場合の損害は相当ありますが、確率はまだ低い方でしょう。しかし、原発を狙ったテロや戦争の危険性を考えるとこちらの確率は算定が難しいもののかなり上がります。

忘れてはならないのは幸いにして悪い事態が起こらず良いと思われる事態が続いたとしてもその結末がどうなるかも考えなければならないと言うことです。
例えば明日から急に日本人全体が貯蓄を取り崩しどんどんと消費をするようになったとしたら、景気は一気に回復し夢にまで見たインフレ状態になるでしょう。
しかしその結末も明らかです。

こういう状況を「人間万事塞翁が馬」と言います。

自分自身では決して悲観論者ではないと思っていますが、起こり得る事態はできるだけ述べて行くということが必要です。

Re:悲観論
雑草Z
 要するに、経済成長神話を信じられるお気楽な人々から見れば、「脱成長しないと滅びる」などと主張している輩は悲観論者なのでしょう。経済成長主義者は、自分たちこそ多数派の正当な宗教、脱成長派はカルトとでも思っているのではないでしょうか?

>あり得る事態とその起こる確率を想定する必要があります。

政府や経済人達はその辺がいい加減と言うか、誤魔化していますね。費用対効果なども滅茶苦茶です。

>原子力発電ではそれ自体の炉心事故(チェルノブイリ)は起こった場合の損害は相当ありますが、確率はまだ低い方でしょう。しかし、原発を狙ったテロや戦争の危険性を考えるとこちらの確率は算定が難しいもののかなり上がります。

まあ、確率が高くないとはいえ、原発事故は一基でも大きければ巨大な国が滅びるレベルですから大変です。チェルノブイリだけでなく、スリーマイル島の事故も考えれば、大きな原発事故も何年かに一度の割合で世界のどこかで起こるわけです。それに一切事故が起こらなくても、放射性廃棄物は溜まる一方です。その処分の事を考えると・・・放射能の崩壊は時間のみの関数で技術で放射能を減らす事は出来ません。だから悲観的に成らざるを得ません。原発の産み出すものの期待値は計算するまでもなくマイナスでしょう。シビアな負の遺産が溜まる一方です。

>幸いにして悪い事態が起こらず良いと思われる事態が続いたとしてもその結末がどうなるかも考えなければならない

本当にその通りですね。でも、現代の「民主主義」は、目先の事ばかり見ています。

>起こり得る事態はできるだけ述べて行くということが必要

そうですね。二酸化炭素温暖化説のみ、考え得る事態が様々な角度からしつこく検討されていますね。・・皮肉です。


歴史
guyver1092
 歴史はある原因についての結果は一つです。たとえば、イースター島は文明崩壊を起こして、悲惨なことになりましたが、悲惨なことになったのと同時に、文明崩壊を避けたということは起こりえません。(歴史の伝え方に問題があり、逆のことが伝えられているということはありますが)
 事実を認められない楽観論者が多数派であれば、歴史を歪曲して伝えるということが起こるのでしょうね。

Re:歴史
雑草Z
>歴史はある原因についての結果は一つです。

何だか凄い断言ですね。ちょっと同意しかねます。しかし、その後の記述を読むと、なるほどとも思えます。もう少し何か別な言い回しとか条件があるのではないでしょうか?

>事実を認められない楽観論者が多数派であれば、歴史を歪曲して伝えるということが起こる

これはこれまでにも多々ありましたね。
このあたりの楽観者は、自分達の都合のいいように解釈しているのでしょうが、彼らがいくらタイタニックは沈まないと言い張っても、巨大な氷山にぶつかれば沈むのです。

GDP
上々
また少し寄り道ですが、GDPにおいては無駄なことでも計算に入りますので、全くの浪費も意味があります。

この辺は家計の収支や、企業の成長とは全く異なり、企業では業績アップを常に求め続けていますが、その方法を間違えて売り上げは上がってもコストがそれ以上かかるようなことをすると倒産につながります。

しかし、GDPではそうではないようです。(誰もそんなことは言いませんが)GDPの求め方自体も相当あやふやなようで、数字が異なる結果が結構あちこちにあると言う話も聞きますが、とにかく何か間違ったことをしてしまい、その修復のために金を使ってもGDPの増大にはなるはずです。

そんなわけですから、無駄を省けと言う人間はそれだけでGDPの縮小を主張しているのに他ならないので、排除すべきなんでしょう。

悲観論者に見えるかもしれない私であっても、さらにひどい破局を避け明るい未来を目指す楽観性があると言うことを再掲し、むりやり話題を戻しておきます。

ペシミストかリアリストか。
でなしNo.146
>このような深刻な現実は枚挙に暇が御座いません。これらの環境破壊、環境汚染が複合的に襲って来ているのです。・・・環境問題に関しては、現状を把握していれば楽観的ではいられる筈が御座いません。・・・どれもこれも、経済の為・・と言うどうしようもない経済成長フェティシズムによるのです。


以前にも書いたかもしれませんが、価値観をひっくり返すというのは幕末(倒幕)に似ているのかもしれません。

私は脱成長路線にシフトさせることは幕末の志士達よりも難しい仕事への挑戦だと思いますが、絶対に成すべきことだと思っています。


環境の面からも限界が近づいている一方で、経済の面からも限界に近づいています。
「環境と経済」は「資源と生産(消費)」という関係に読み替えられるかもしれないので、一方が限界に近づけば他方も限界に近づくのかもしれません。

どちらも今はドーピングして支えている状況の中で、クスリが切れた時の反動が恐ろしい…

こうした問題を憂う人達は悲観論者と言うより、現実主義者なのだと思います。

経済成長至上主義者よりずっとまともだと思うのは、私も脱成長支持の人間だからですかね^^;

Re:GDP
雑草Z
 全く同じ製品でも高く売れた方がGDPは上がります。物が早く壊れ次の製品が売れるほど上がりますし、災害が起こっても、その為にお金回りが良くなれば上がります。
そんなGDPが豊かさの指数であると言う発想は非常に貧弱ですね。私はGDPが一番表現しているものは、「景気のよさ」ではなく「浪費レベル」だと考えています。GDPは浪費指数と呼ぶべきでしょう。以前記事にしました。
【GDPは何の指標か?】
http://zassou322006.blog74.fc2.com/blog-entry-238.html

>GDPの求め方自体も相当あやふやなようで、数字が異なる結果が結構あちこちにあると言う話も聞きますが、

言われてみればそういう事もあるでしょうね。何を重複として省くかなども、明確には決められないでしょう。

>無駄を省けと言う人間はそれだけでGDPの縮小を主張しているのに他ならないので、排除すべきなんでしょう。

現実に社会の色々な場面でそういう事がありますから怖いですね。「消費拡大」なんて事を恥ずかしげもなく語るエコノミストや政治家、マスコミが普通に沢山いる世の中は狂っていると言えましょう。

>さらにひどい破局を避け明るい未来を目指す楽観性があると言うことを再掲

お互いそういう事を目指す楽観性は持ち続けたいし、持ち続けられる状況が見いだせればいいですね。
起こり得る最悪の事態もしっかり述べて、その上でそれを回避する方策をお互いに述べていきましょう。改めて宜しくお願いします。


Re:ペシミストかリアリストか。
雑草Z
 経済成長神話は、悪魔の思想として葬り去らねばなりませんね。21世紀中には成し遂げられるでしょう。・・どこまで早く成し遂げられるか・・・ですね。社会が脱成長に脱皮するのを見届けたいものです。

>「環境と経済」は「資源と生産(消費)」という関係に読み替えられるかもしれないので、一方が限界に近づけば他方も限界に近づくのかもしれません。

その洞察はかなり妥当と解釈出来るでしょう。経済は環境を食い潰しながら成長して来た部分も否定出来ませんからね。

>こうした問題を憂う人達は悲観論者と言うより、現実主義者

なるほど、言い得ています。そこですね。私が記事で主張しようとしていた事を明確に言及して下さいました。有難う御座います。

初めまして。
power
雑草Zさん


初投稿となります。powerと申します。

貴ブログを拝見し感銘を受けました。
悲観論とのことですが、経済成長を前提としている
資本主義は崩壊せざるを得ないだろうと私も思っております。

資本主義は「ムダ・ムラ・ムリ」がないと成り立ちません。
生活必需品&健康で文化的な最低限度の生活に必要な
趣味や教養娯楽だけでは経済成長ができず、必要のない
無駄な公共事業などに金や人員を投入し続けて
需要が無くなれば法律改正などで無理やり需要を作り
出して(以下、略)といった、傍から見れば馬鹿馬鹿しい
とも思えることも「経済成長のために」だの「豊かになるため」
だのの名目で正当化されています。

これは、やはりおかしいのだと私も感じておりました。
必要のない無駄なことをし続けなければ成り立たない経済
システムは最初から破綻しているのだと思うのです。

雑草Zさんのご意見をお願い致します。



楽観論者
上々
悲観・楽観と言う考え方をほとんどしたことが無かったので、何か違和感を感じていましたが、もしかしたら「悪い予想をするのは皆悲観論」といった極めて低級な論者が居るんじゃないでしょうか。
まあちょっとまともに相手をするのもアホらしい話ですが。

暇つぶしに良く見る一般向けの掲示板がありますが、(仕事がほんとに暇なんです)そこに最近結婚式を間近に控えた若い女性が、「晴れの確率が高いのでこの日に決めたのに雨の予報が出て、晴れのつもりで色々プランを考えていたのにみな潰れてしまいそう」と本気で焦って書き込みをしていました。
普通、晴れ・雨どちらでも対応できるように両方のプランを考えるだろと思いましたが、どうやら雨用プランを全く考えていなかったようです。
結局、天気予報を覆し何とか雨が降らずに無事結婚式は終わったようですが、これと同じように雨の時にはどうしようと言うことを全く考えないのは政治や経済の指導者としては全く無能です。

本当のことを言えば、嵐の場合を想定して準備しておけば、たまたま晴れればホントにラッキーと喜びも数倍になるものと思います。

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2010-10-11 00:01
~経済成長がシフトダウンした理由~
最近、経済成長主義を批判し、脱成長を主張する人が増えてきました。勿論脱成長派はまだまだマイナーな存在です。現時点では世の主流は圧倒的に成長派です。しかし、脱成長派が確実に増えている事も確かです。それは理性で考えれば当然の事だからです。

さて、最近脱経済成長路線を主張する書物なども増えていますが、その論調の多くが最近の経済成長率の低さ、(若しくはダウン)を人間社会の潮流として捉えているのが特徴です。即ち、もう物資は十分に揃ったから更に新しいものは買う必要が無くなり、人間はこれ以上の物質的豊かさを求めなくなってきた・・・という事です。
確かにその傾向がある事は認めます。そのような好ましい傾向は時折、様々な場面で垣間見られるようになりました。現在の先進国での商品は本当に必要があるから買うと言う場合よりも、必要はないけれども買うという行動にシフトしています。企業に踊らされて買わせられているのです。無理に作られた似非ニーズによって買わせられている部分もかなり大きいでしょう。ものが溢れかえった現代社会で、最近の人間は物欲が小さくなって来たと言います。若者の車離れの傾向も見られるようになりました。非常に好ましい傾向です。
 しかしそのような人間社会の潮流だけで語る事・・・人間の意向の問題としてのみ語る事は片手落ちでしょう。成長の限界という観点があまり考慮されていない場合が多いようです。グローバルになった人類の活動は、成長の限界によって常に大きく制限されているのです。開発も経済活動も人口増加も伸びなくなって来たのは成長の限界が近づいてきた、若しくは持続可能な限界を超えてしまった事が大きな要因としてあるのです。
わかり易い典型的な例をいくつか挙げてみます。
先ずは
再生可能な資源の典型例のひとつは水産資源でしょう。現在、魚を必要以上に取り過ぎて、水産資源が減っています。最近まで水揚げ高が増えてきたのは、底引き網等、魚を大量に獲る手段が開発されて普及したからであって、決して水産資源が増えてきたわけではありません。魚はどんどん減っています。
水産資源のような生物の場合、太陽光などと違い、ストックとしての絶対量が減れば減る程、次世代=再生量 も減ってくるので減少スパイラルが始まるとまたたく間に資源のストックも減少します。世界中の海域や湖沼、河川で、絶滅したり殆ど見られなくなってしまった魚介類の例は枚挙に暇が御座いません。つまり再生可能な資源も再生の速度を上回る消費によって再生不可能な方向に進むのです。この結論は至極当然の帰着でしょう。
もうひとつ、再生可能な資源の典型例として、森林についても同じような事が言えるでしょう。

再生不可能な資源については言うに及ばないでしょう。
今話題のレアアース類は勿論、地下資源は全て枯渇に向かっています。鉱物の純度も低くなり、同じ量の鉱物を製錬するのに以前の何倍もの鉱石を精錬しなければならなくなりました。
現代文明を支えている石油も、【石油ピーク説と現代社会について (1)】、【石油ピーク説と現代社会について (2)】で論じた通りでしょう。早晩・・もうすぐ・・石油文明は終わるのです。そして有効な代替エネルギーは無いのです。


経済成長は、GDPの伸びで定義されます。定常状態でのGDPの伸びは零です。資源が減った事による資源の高騰で、GDPが増える・・という矛盾はあり得ますが、経済成長する為には、物資のフローが増えてGDPが増えなければなりません。・・・
現在先進国と呼ばれる国で、経済成長が止まりそうな国が多いのは、物資の消費速度が伸びなくなったという状態ですが、これは人々が賢くなって足るを知ったからだけではないでしょう。限られた資源の枯渇が近づいてきて資源が高騰したり、手に入りにくくなってきているのです。成長する空間が無くなって来たのです。つまり、人類は地球からの制限を大きく感じるまでに成長してしまったのです。だから人類が望む望まざるに関らず、これ以上の成長を続けようとする行為は自殺行為なのです。
地球規模で考えれば、物資のやり取りはゼロサムゲームです。人類の活動範囲がグローバルになり、人類の行う経済のゲームはゼロサムゲームを実感するまでに達したのです。

一方、収入を下げてまでも、ゆったり暮して行こうとか社会に貢献しようと言う人も増えてきました。好ましい傾向です。・・・しかし収入を下げても・・というのはある程度余裕のある層のお話です。一国の中でも、国同士の関係でも、二極化が進み格差が開いている社会では、富裕層の多くは相変わらず物を買いまくっている輩が多く、増えてきている貧困層は、物をあまり買えなくなってきています。物資の所有はゼロサムゲームだから当然の帰結です。否、マイナスサムゲームかも知れません。地下資源のような再生不可能な資源は段々廃棄物になり、使えなくなってきていますし、再生可能な資源も乱獲によって減ってきているのです。経済活動が地球規模になる以前のように、利用されていなかった手つかずの自然領域をどんどん経済圏に組み込んで行って経済成長を続ける事が出来なくなったのです。そんな時代は終わったのです。(・・実ははじめからゼロサムゲームだったのです・・)中国をはじめとするいわゆる新興国の経済成長は続いているではないか・・・と反論が来そうですが、それは、最後で最悪のあがきです。これまでの先進国の例のように環境から搾取して、環境を犠牲にして、経済成長を推し進めているだけです。将来、そのしっぺ返しは何倍もになって跳ね返ってくるでしょう。どの国も今世紀の早いうちに成長の限界にぶつかるでしょう。
成長の限界の前に、人間社会の潮流として物質主義から脱出しているというのなら非常に好ましい状態です。しかし、残念ながら、それよりも人類の無節操な行動によって成長の限界に近付いてきた事、持続可能な限界を超えてしまった事による制約が大きいでしょう。人類の理性で成長の限界より前に経済活動を持続可能な方向に軌道修正出来ればそれほど素晴らしい事は御座いません。最高の解決方法です。しかし今のところその解釈はかなり楽観的です。・・オプティミズムは必要ですが、その楽観によって、対策がゆるくては、現文明が破局を迎える事になるだけです。・・・既に物資のフローは再生可能な限界を超えて消費超過になっているのですから、もっとシビアに現実を直視して考えて然るべきでしょう。つまり成長の限界による制約がどんどん現れてきてそれによって経済は成長出来ないと言う要因です。・・つまりそれは、社会、環境の破局の兆しでもあるのです。人類が望む望まざるに関らず、地球のキャパによって成長の限界に突き当たって成長出来なくなってきているのです。
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【2010/10/11 00:01】 | Sustainability トラックバック(0) |

成長とは
上々
19世紀から20世紀にかけてはヨーロッパ社会、その後アメリカと日本の成長の時代と言えるわけですが、それら先進国の国民の生活を豊かにさせたという点に加えて、そのような豊かな国民の人口自体が非常に増加したということも成長を大きくした要因と言うことができます。

これらの国でも18世紀までは人口の増加は一部を除けばそれほど進んでいたとはいえないでしょう。医療・衛生面でもまだ未開同然であったこともありますが、なにより食糧供給の面で不十分であったためです。
それが急激に増加するようになったのはやはり窒素肥料の合成法開発による農産物増産のためと考えられます。

最初はそれらの人口を食べさせるだけでも経済は成長していったと思われますが、増えて行った人々がそれぞれ活発に活動していき、色々な面でどんどんと成長していった。
この点は人口が増えなければ国は不活化すると言う少子化問題に対する論点の当たっている点ではあります。

しかし、グローバル化が行き着いた先はどこにも未開地が無く伸びようがない世界であったということです。
成長に対する制約は資源でもあり、環境でもあります。一番大きな制約は土地でしょう。どこに行っても人間だらけの地球ではどんなにがんばっても生物多様性など守れるはずもありません。せいぜい動物園を作りましょう程度のものです。

しかし、ここで出ている数々の問題点は先進国に大きく責任があるものであり、現在の開発途上国の不満が大きいのも当然です。今後色々の面で双方が衝突する場面が増えてくるでしょう。様々な危険性をはらんでいるところです。

欲望の枯渇
guyver1092
 経済成長のみを考えれば、本質的に必要な物(衣食住)は、少なくとも先進国においては十二分に供給されていて、これらを扱う商売はもう限界(これ以上もうからない)ということがありますね。
 趣味等、遊びの部分では、少なくともそれぞれ各人の収入の範囲では、ほしい消費財はもうすべて手に入れているような状態でしょうね。このような状態の中で消費財を売っていこうとすれば、それぞれが持っている消費財を陳腐化させて買い替えをさせるという方法しかありません。この陳腐化の方法とは、自動車でいえばモデルチェンジです。しかし現在では、大企業が貨幣の大部分を集めすぎて、消費者が消費をしようにもできないという事態もあるかと考えます。少なくとも消費者の財布に制限されてた欲望は枯渇しているのでしょう。
 労働分配率を上げて消費者にお金を回せば使えるお金が増えた分だけ消費は拡大し、経済成長できるでしょうが・・・・・
 地球全体を見れば無駄に消費をして資源の枯渇に拍車をかけるという事態になってしまうでしょう。

 現在の人類の資源の消費を考えると、先進国は減ったといってもまだまだ消費しすぎでしょう。私が考えるに、衣食住以外にお金をつぎ込むべきものは、太陽エクセルギー(有効エネルギーとも言います)の回収システム(如何に石油を使わず持続的に農業をするかも含めてです)のみです。人間には遊びが必要ですが、このシステムを考えるを競うのも楽しいのではないでしょうか。

経済成長の要因
雑草Z
    上々さん

 上々さんの御指摘、ごもっともです。
人口増加が経済成長の大きな要因であり、人口が増える余地が無くなって来た事も成長の大きな要因であると私も思います。実はその事も書こうと考えていたのですが、記事が長くなったので書き落としてしましました。しかし、上々さんが非常に納得のいく上手いまとめ方をされて下さいました。

>急激に増加するようになったのはやはり窒素肥料の合成法開発

これは上々さんならではの観点ですね。私の抜けている部分でした。なるほどそうかと思います。そして、

>最初はそれらの人口を食べさせるだけでも経済は成長していったと思われますが、増えて行った人々がそれぞれ活発に活動していき、色々な面でどんどんと成長していった。

この表現で、ここ数世紀の成長の大きな要因を的確に表現していますね。


>人口が増えなければ国は不活化すると言う少子化問題に対する論点の当たっている点ではあります。

これは経済成長主義が破局に繋がるという事の証の一つですね。飽和するまでのねずみ講のような論理です。指数関数的増加の後にやってくるものは、上々さんのおっしゃるところの

>どこにも未開地が無く伸びようがない世界

ですね。

>成長に対する制約は資源でもあり、環境でもあります。一番大きな制約は土地でしょう。

ここの分析も上々さんならではですね。一つの的確な見方かと思います。土地の利用の飽和も深刻な問題です。開発の余地が無いのに経済の為(・・という名の利権・・)に開発して、環境破壊がされています。


Re:欲望の枯渇
雑草Z
    guyver1092さん

>欲望の枯渇

 とは、またguyver1092さんならではの面白い表現ですね。言い得て妙です。

>本質的に必要な物(衣食住)は、少なくとも先進国においては十二分に供給されていて、これらを扱う商売はもう限界

全くその通りだと思います。いわゆる先進国では今でも十分に過剰ですね。


>それぞれが持っている消費財を陳腐化させて買い替えをさせるという方法

広告代理店をはじめとするイメージ戦略、ニーズの創出という洗脳がどんどん出てきたわけです。市場原理主義のダークサイドです。

>地球全体を見れば無駄に消費をして資源の枯渇に拍車をかけるという事態になってしまう

ここの部分が一番重要で、実は
無駄な消費による地球からの制限=成長の限界
が既に人間活動に大きく制限を加えていると言うのが本記事の主題です。舌足らずだったかもしれませんが、人間社会の潮流として、成長戦略から降り始めた部分よりも、現時点では成長の限界からの制約のほうが大きいと言う事です。
 脱成長を主張する最近の書物やサイトが、地球のキャパから来る成長の限界という最も制約を受けるファクターの部分にはあまり触れずに、人類社会の兆候としてニーズの減少からの脱成長を論じているものが多く感じましたので、成長の限界を根底に置いて論じなければならないと言う意味でこの記事を書きました。

>お金をつぎ込むべきものは、太陽エクセルギー(有効エネルギーとも言います)の回収システム(如何に石油を使わず持続的に農業をするかも含めてです)のみ
>人間には遊びが必要ですが、このシステムを考えるを競うのも楽しい

非常にguyver1092さんらしい独創的な発想です。もう少し具体的に検討したい部分ですね。 

生活の豊かさ
上々
前のコメントではついつい「豊かな生活」なんて書いてしまって、本音が出ました。
生活の豊かさとは何かと言えば、精神的なものはおいておくとしても、衣食住の豊かさであることは間違いありません。
衣食について言えば、昔とは比べ物にならないほどの良質でバラエティー豊かな物を享受できます。
また住については日本ではまだ不十分とはいえ、日本の以前の状況よりは広く快適にはなっています。
特に家電製品や自動車などは生活の様式自体の変質を起こすほどに浸透しています。この辺は「電化社会の罠」と言う文章を書いているのですが、まだ完成しておりません。

このような衣食住に関する商品が欲望の対象とならなくなったと言うのはどういうことか。決してそれらを享受することを止めたと言うわけではないはずです。
しかし、電化製品などは通常の買換え需要以外には強制的買い替え政策等を除けば、確かに自分自身でも「欲しいものがない。」のは確かですね。

もし、このようなものがあれば多少無理をしてでも買いたいというものを想像してみると、普通の物はないですね。
強いて言えば、ドラえもんの道具でしょうか。どこでもドアとか、タケコプターとか、スモールライトとか。
その位インパクトのあるものなら買っても良いかと思いますが、結局もはや通常のものには食指が動かなくなってしまったということでしょうか。

してみると、現在の科学技術も実は行き着くところまで行き着いたということなのかもしれません。

それがちょうど資源制約の明らかになる現在と重なったと言うことも歴史の皮肉の一つと言えるのでしょうか。


Re:生活の豊かさ
地下水
 人間の本当に消費したいものは何でしょうね?
 欲しいものは例えば「癒し」だと思います。渓流、木陰、木漏れ日、そよ風、お花、波の音、お散歩、お茶、果物狩り、談笑、お風呂、清潔、防虫、安眠・・・。必ずしも自然に負荷をかけて大量消費するものと重ならないのではないでしょうか。

Re:生活の豊かさ
雑草Z
    上々さん

>生活の豊かさとは何かと言えば、精神的なものはおいておくとしても、衣食住の豊かさである

なるほど、ずばりと来られましたね。そして

>自分自身でも「欲しいものがない。」のは確か

実感しますね。私も売っている製品でこれと言って欲しい商品は直ぐには思いつきません。

>強いて言えば、ドラえもんの道具

なんだか上々さんらしからぬご発言ですが、言いたい事は伝わってきます。ドラえもんの道具はよく知りませんが、

>その位インパクトのあるものなら買っても良いかと思いますが

と言う事ですね。

>現在の科学技術も実は行き着くところまで行き着いたということなのかもしれません。

そう思った事は御座いませんでしたが、言われてみれば確かにそうかも知れません。そして、それ以上のインパクトのあるものは、実用化したら負の面も沢山あって非常に危険なものでしょうね。文明崩壊に導く道具かも知れません。

>それがちょうど資源制約の明らかになる現在と重なったと言うことも歴史の皮肉の一つと言えるのでしょうか。

皮肉と言うよりも、もしかしたら僥倖かも知れません。・・その為には成長の限界からの縛りを痛感して、文明崩壊して行く以前に降りる事でしょう。エコカー補助金やエコポイントのように必要のないもののニーズを作り出して買わされているうちに環境カタストロフィーが始まれば、本当後悔し切れない愚かな皮肉ですね。

>「電化社会の罠」

期待しております。完成したらこちらで載せて頂けるのでしょうか?当方が先日書いた【電気依存社会】とはまた違った切り口のような感じで、楽しみです。


Re:Re:生活の豊かさ
雑草Z
    地下水さん

>間の本当に消費したいものは何でしょうね?

「消費」と言えば、食料品のようなものでしょうから成長(増加)の必要は全くありませんね。定常状態で地球のキャパに余裕があって永続出来る範囲で無ければなりませんね。
地下水さんのおっしゃるように、自然に負荷をかけて大量消費するものではないでしょうね。・・・それは経済成長主義者と言う名の金融資本主義家の戦略でしょうか?

>渓流、木陰、木漏れ日、そよ風、お花、波の音、お散歩、お茶、果物狩り、談笑、お風呂、清潔、防虫、安眠・・・。

いいですね。本当にそれらがあれば十分に幸せです。

タイムマシン
上々
ドラえもんの道具と言うのは、ずっと子供の付き合いでアニメを見ていましたので、結構なじんでいました。
中でも本当にあれば良いなと言うのはタイムマシンか、自分が行けなくても昔の時代の様子を見られる道具ですね。
歴史の本当の所がどうなのか、知りたいところがたくさんあります。まあ現代の出来事でも本当の所は判らないことが多数ですので、仕方のないことですが。

さて、生活が「豊か」というのは、絶対的な判断でもあり、相対的な判断でもあります。現代の中流以上の(こう注釈を入れなければならなくなったのは確かでしょう)日本人の生活は昔であれば王侯貴族の生活で、しかもかなりの面では彼らが持たなかったものも所有しています。(テレビ・エアコン・冷蔵庫等)
昔の王侯貴族は使用人や奴隷にさせていたことを、今の人はエネルギーを使って機械にさせています。
ただし、それは成果としてみれば人がやっても機械がやっても変わるものではなく、単に自分の時間が持てると言うだけです。

生産性が向上し、おそらく奴隷制が確立したためにブッダ・キリスト・孔子の大思想家たちが思索する時間ができました。
今はもっと多くの人間がそれ以上の時間の余裕を持てているはずですが、凡人の哀しさでしょうか。

ちょっと話がずれましたが、現代の「文明の利器」は人に時間の余裕を作り出すものと、新しい文化を作り出すものの両方があると言うことです。
そして、すでに時間の余裕は十分すぎるほど作られ(その代わりに余った時間?はお金を稼ぐのに費やされ)、作り出されるべき新しい文化は大衆迎合の低俗なものばかりになってしまったという現実です。

Re:タイムマシン
雑草Z
 やはり、ドラえもんはお子さんと一緒に見られていたのですね。私が子供の頃はやっていませんでしたが、もう2~30年続いているのでしょうね。
 タイムマシンの話は矛盾だらけで、つじつまが合わないので好きではないのですが、
 確かに昔の時代の様子は観たいものですね。自分自身の子供の頃の様子も観てみたいですね。

>歴史の本当の所がどうなのか、知りたいところがたくさんあります。

 未来予測は、明日の天気でもよく外れるし、エコノミストも外してばかりですが、過去の事も不確実な事ばかりだと思います。
地球の歴史も生物の進化の過程も怪しい事ばかりです。
 そんな長いスパンで無くとも、色々な「史実」と呼ばれているものも怪しいものが沢山あるでしょう。

>生活が「豊か」というのは、絶対的な判断でもあり、相対的な判断でもあります。

そうですね。絶対的な部分が結構あるようですが、実際は相対的な事で一喜一憂しているのではないでしょうか?

>ちょっと話がずれましたが、

いえいえ、歴史に造詣の深い上々さんならではの歴史的考察を興味深く読ませて戴きました。

>生産性が向上し、おそらく奴隷制が確立したためにブッダ・キリスト・孔子の大思想家たちが思索する時間ができました。

特にこのあたり、鋭く、面白い洞察ですね。その意味では思想家達も「哲学」と言う贅沢をしていた事になりましょうか?

>すでに時間の余裕は十分すぎるほど作られ(その代わりに余った時間?はお金を稼ぐのに費やされ)、作り出されるべき新しい文化は大衆迎合の低俗なものばかりになってしまった

このあたり、確かに現状を反映していますね。それこそ、「生活向上に伴って発生した『皮肉』」と言えそうです。 

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2010-10-05 00:01
どの時代もその時代時代の価値観に縛られるものです。封建時代も軍国主義の時代もその時代に生きた人々はそれらの価値観に拘束されてきました。そして、後の世からは、不合理な事、モラルに反する事、非人道的な事もその時代にはまかり通っていたものが沢山あります。例えば、第二次世界大戦以前の日本の軍国主義、ドイツのナチズム等もその典型例でしょう。
アメリカの正義と言うものも非常に独善的である事は多くの人の指摘するところです。なにせ彼らにとっては、先住民であるNA(インディアンやインディオ)を、率先して虐殺して、彼らの住んでいた土地を略奪してきました。絶滅させた部族も枚挙に暇が無いにも関らず、ずっと、キリスト教の新住民(ヨーロッパからの移民=侵略者)が正義で、先住民を悪玉扱いして来たのですから・・・。勝てば官軍の諺通りです。16世紀あたりからの大航海時代からはヨーロッパのキリスト教徒が横暴を働き、そのキリスト教徒が乗っ取った国のアメリカがその横暴を引き継ぎました。20世紀後半からは非常に独善的なアメリカの正義に世界中が翻弄されてきました。きっと後の世からは、「アメリカの独善による横暴」と評される事でしょう。(・・もう既にそう評価されている事例も沢山あります。)

そう、人類は時代の価値観に翻弄され、理不尽な事も常識としてきました。時代時代の偏った価値観は避ける事が出来ない事なのかも知れません。・・・・絶対的な価値観と言うものも存在しませんから・・。

近年はどうでしょう。新聞、ラジオ、テレビなどマスメディアの発達した20世紀には、特定少数発信源からの一方的な情報伝達で、やはり偏った価値観が形作られてきました。第二次世界大戦中の日本の大本営発表の例が特異な例という訳でもなく、メディアを支配した企業、団体、個人によって、情報が操作されて特定方向に仕向けられた例も枚挙に暇が御座いません。
 現代はどうでしょう。ネットの発達によってマスメディアで無い小さな個人がどんどん情報を発信できるようになりましたが、それでも大きなマスメディアの力はまだまだ影響力大です。ネットで情報、意見を発信する者も、かなりマスメディアに影響されています。

 科学的で民主的な社会、時代に生きていると自負している現代の人々も、後の世から見れば非常に理不尽な価値観に振り回され翻弄されているのです。その代表が資本主義と経済成長主義でしょう。理不尽で不公正、矛盾だらけの非常に特異な主義の中で生まれ育った現代人の多くは、生まれた時からその主義、思想にどんどん洗脳されてきています。そして、成人した頃には、多くの人間がその時代の価値観を代表するかのような企業戦士に育ってきました。
 資本主義社会[Capitalist Society=資本家の社会]は簡単にいえば、投資家=ギャンブラー&金貸し が支配する社会です。そんなものがまともであると考えるのが異常です。間違ってはいけないのは、自由主義と資本主義は抱き合わせで述べられていますが、それらは別物です。共産主義を批判する為に、意図的に発せられたプロパガンダでしょう。
 例えば、会社が、実質全然会社で働いていない 大株主=資本家 のものとされて勝手に売り買いされては従業員はたまったものではありません。そんな理不尽がまかり通るのが資本主義です。資本主義社会では、労働者は生産手段の道具と同等にみなされているのです。
 経済成長主義が破局に向かう事もここで何度も記事としています。私は経済優先主義、経済成長主義を エコファシズム [Economic Fascism] と定義していますが、その表現は全然大袈裟ではないでしょう。それどころか、第二次世界大戦頃のドイツやイタリアのファシズムよりも巨大なファシズムでしょう。人類史上類を見ない最大のファシズムです。何せ世界の大多数の人々が信じているのですから。・・そう、深い洞察無く単に「信じて」いるだけです。

 日本では、お隣の国が民主的で無いとか、中南米が、アラブ諸国が、色々な国や組織が異常だと思っているいる人が沢山いますが、資本主義と経済成長主義を妄信している現代人の大多数こそが異常なのです。その異常さを異常とも感じないくらい洗脳されているだけ始末に負えないような異常さなのです。

 しかし、その異常さに気付いている人は増えています。・・・私の手ごたえでは、その数が指数関数的に増えています。・・・来るべき、ポスト資本主義社会では、現代の大多数派の資本主義肯定者、経済成長主義者は、非常に愚かな大馬鹿者であった・・・と評価される事になるでしょう。
そしてそのような時代は遅くとも今世紀中には実現するでしょう。・・・経済成長主義のなれの果てとして人類が滅びなければのお話ですが・・・これは希望であるとともに社会の潮流として実感している部分でもあります。
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【2010/10/05 00:01】 | Economic Fascism トラックバック(0) |

時代の常識
上々
インターネット上には色々な話題に意見を書き込める掲示板があり、その中の一つを良く見ております。(仕事が暇なんで)
そこに最近、「残業が続き激務で身体を壊すと言うが、それは労働基準法に違反しているのでは」という極めてまともな提議がありましたが、それに対する反応のほとんどは、「それが現実」「世間とはそんなもの」「首切られるよりまし」といったものでした。
世間の今の常識と言うのはそんなものなんでしょう。

こんなものが「正しい」常識のはずはなく、ほんの数十年前は中小企業は判りませんが大企業では不当であったはずです。
しかし、それでは国際競争に勝てず企業が潰れてしまうという言い訳の前に、なし崩しに認められるようになってしまいました。

「現在の常識」などというものはせいぜいその程度の根拠のものに過ぎません。社会が変わればすぐに常識も変わってしまいます。戦後に軍国主義から民主主義に変わりすぐに態度を替えてしまった人達を非難する人も居ますが、一般人としてはそれが「常識的態度」です。

しかし「このまま行けば大変なことになる」という見通しと言うのはそのような「今の常識」とは相当違い、また軋轢を伴うものです。そのようなことを言わずにはいられない人のことを私は以前から「預言者」と呼び、昔のヘブライの預言者の例を挙げて必要性を強調してきました。

預言者にとっては時代の常識など何の意味も持ちません。正しいか正しくないか、それが神の正義か、科学の真実かはその人それぞれでしょうが、言わずにはいられないことは言って行くということです。

RE:時代時代の価値観
guyver1092
 エネルギー及び資源的なことに限定して考えれば、人間は時代ごとに最も手に入りやすくて扱いやすいものを基準に、生産、消費を常識にしてきましたが、その時代の常識を疑いもせず、次の時代にその常識を否定されているにもかかわらず古い常識にこだわり続けた者は、すべて文明崩壊で破滅しているようです。次の時代に合う常識を作った文明は生き延びています。
 賢く長生きをしようと思えば、正しく次の時代を予測して、その時代に適合する常識を作り上げていく必要があります。これからは石油がない、成長する空間のない時代に向けての常識を作り上げていく必要がありますが・・・  人類を滅ぼしたい者たちが、石油の浪費をあおっています。(資本主義、経済成長という古い常識にこだわる者とも言います)
 過去の歴史から考えると、気違い沙汰ですが。

Re:時代の常識
雑草Z
>国際競争に勝てず企業が潰れてしまうという言い訳

世界中の企業がこのような理由を付けて労働者を安い給料で残業までさせていると言う事は、結局資本家が労働者を安く使い、使い捨てにしてさえも自分達がもっともっと儲けたいと言うその欲望の為のグローバル化という事になりましょう。20世紀の後半に、段々勝ち取られていった労働者の権利は、グローバル化や市場原理主義によってまた剥ぎ取られてきましたね。

>「現在の常識」などというものはせいぜいその程度の根拠のものに過ぎません。社会が変わればすぐに常識も変わってしまいます。
>すぐに態度を替えてしまった人達を非難する人も居ますが、一般人としてはそれが「常識的態度」です。

このあたり、私が本文で書こうとした事を非常に上手くわかりやすく表現されていますね。記事本文と差し替えたいくらいです(笑)

 予言の類には興味がなかった自分ですが、
上々さんから以前より、「予言者」と「預言者」の違いを教えて頂き、「預言者」の価値を感じてきたところです。そして、今回の御説明で(上々さんの定義されるところの)「預言者」の意味がはっきりわかりました。そのような予言者はパラダイムシフトが必要な現代にこそ必要ですね。
お互いこれからも言わずにはいられない主張を言って行きましょう。


Re:RE:時代時代の価値観
雑草Z
>次の時代にその常識を否定されているにもかかわらず古い常識にこだわり続けた者は、すべて文明崩壊で破滅しているようです。次の時代に合う常識を作った文明は生き延びています。

なるほど、鋭い洞察ですね。その通りかと思います。

>これからは石油がない、成長する空間のない時代に向けての常識を作り上げていく必要があります

そう、それが今、真っ先にすべき事でしょう。成長の限界に近づいてきたのに、それを無理に推し進めようとするのは愚行です。いい加減、それが破局への道である事に気が付いて、ポスト成長路線にシフトすべきでしょう。

予言者と預言者
上々
Wikipedia情報によると、預言と言う訳語を使ったのは中国が先だったそうですが、中国語では予言も預言も意味が違うわけではない(というか当時は予と言う字がない)だけだったそうです。
ところが日本では預の字には「あずかる」という意味を付け加えていたために、預言は「神の言葉を預かる」予言は「未来のことを話す」という風に使い分けてしまったようです。

その使い分けが極めて鮮明だったためにそのまま使い続けられているということだそうです。

まああまり言葉にこだわらず、今の解釈通りにやって行った方が判りやすいでしょう。

しかし、私の言っていることの中には「こうなってほしくないから言っておく」と言うことが多数を占めますが、「こうなってほしくなくてもたぶんそうなる」ということであれば、予言でも預言でも一緒になります。
蟷螂の斧であっても少しでも食い止めることができ、「そうならなくて良かった」ということになれば良いのですが。

guyver1092さんの書かれた「成長する空間のない時代」というのは私の思考に抜けていました。無意識に地球全体を限界と考えてしまっていて、すでにフロンティアはどこにもないと言うことを暗黙の了解としていましたが、しっかりと再認識する必要があります。

変化の兆し
でなしNo.146
私の周りでは、この資本主義の世の中が永遠に続くような感覚でいる人はまだまだいますが、エネルギーや人口やら食料を例えに出して言うとだいたいわかってくれるようになってきました。
(たまーに意味のわからない反論もありますよね。代替エネルギーは原発とかw)

そして、その後に続くのが、「じゃあ、どうなるんだ?」という…こちら側に回答の責任を丸投げする輩が多いこと。

少しは自分で考えようと思ったりしますが…
(だからマスコミなどに簡単にだまされるんです。)

まぁ、常識では考えられないのでしょうね。資本主義以外の世界は^^

ただ、話をしていると、この資本主義&成長主義では将来頭打ちになりそうな(自分が幸せになれなそうな?)機運は世間に徐々に浸透しているような感じも受けます。

いずれにせよ、人類が生き残るには脱成長の路線にシフトするしかありませんし、シフトしたならば、資本主義の時代はバカなことをしていたと言われることだと思います^^

ローマクラブ
上々
変化の実際が判らない人には説明するのは難しいですが、兆しは至る所に出ていると思うのですが。
ローマクラブが成長の限界と言う提言をして大騒ぎになったのは1970年とのことです。そこで順調に?見直しが進められればここまで大変な事態にはならなかったと思いますが、その後大規模な油田の発見(とはいっても今から見れば最後の発見)が相次いだために完全に忘れ去られてしまったということです。
これも将来から見れば歴史の皮肉と評されることでしょう。

まあ70年の時点で見直しがされたとしてもまだ米ソ並立で旧来の先進国が強大な時代ですから、相当変な形の修正でしかなかったでしょうが。

Re:予言者と預言者
雑草Z
>日本では預の字には「あずかる」という意味を付け加えていたために、預言は「神の言葉を預かる」予言は「未来のことを話す」という風に使い分けてしまった

 このあたりの使い分けは上々さんに教えられて初めてなるほどと思った事です。一般の人々は知っているのでしょうかね?・・・今度色々な人に確認してみようと思います。
 言われてみれば確かに

>使い分けが極めて鮮明

ですね。

 先にも書いたように私は予言にはあまり興味がなかったのですが、

>「こうなってほしくなくてもたぶんそうなる」ということであれば、予言でも預言でも一緒になります。

にどきりとしました。ここで私が描いている事の中には、
「こうなって欲しいわけではないけれどもならざるを得ない事」
が沢山含まれています。そしてその事に関してかなりの割合で確信を持っています。つまり、一緒の部分が大きいのかもしれません。

 しかしそれは裏返せば、
「こうならざるを得ないから、そうなったときに対応した社会を築く」ということにもなりましょう。
 脱石油文明、脱原発、脱資本主義、脱経済成長・・・
全てこれから起こる事ですから、それを温存しようというような無理、無駄な努力はやめて、それに対応した社会を築いて行くべきでしょう。
どれも今世紀中に起こる事でしょうから。


Re:変化の兆し
雑草Z
    でなしNo.146 さん

>常識では考えられないのでしょうね。資本主義以外の世界は^^

これを洗脳と言わずして何と呼びましょうか?資本主義社会も経済成長戦略も人類の歴史から見ればほんの一世紀のオーダーの打ち上げ花火なんですけどね。勿論打ち上げ花火が、ずっと空の上に輝いている筈が御座いません。現在は、散った火薬が消え始めて、火の粉が落ち始めている状態でしょう。

>話をしていると、この資本主義&成長主義では将来頭打ちになりそうな(自分が幸せになれなそうな?)機運は世間に徐々に浸透しているような感じも受けます。

そうです。指数関数的(ジグモイド関数的?・・笑)に増えているでしょう。それを相変わらず経済対策だの新成長戦略だのと言っている政府などの指導者は、guyver1092 さんの言うところの
>古い常識にこだわり続けた者
という事でしょうね。国会中継などを見ると、あまりにも刹那的な現代社会の価値観に縛られ過ぎていてお話になりません。民主党も自民党も社民党も○○党も・・・みんなお話になりません。21世紀に耐えうるイデオロギーを持っていません。もっと利口な一般市民は沢山いますから脱成長路線の政党が台頭してくるでしょう。

 総括すると問題は唯一つ・・成長の限界による崩壊が先か、脱成長へのシフトが先か・・これに尽きます。
実際は両方絡まりながら起こるでしょう。既に始まっている崩壊の兆しをしっかり認識して、脱成長路線がどこまで崩壊を防げるかです。

Re:ローマクラブ
雑草Z
>兆しは至る所に出ている

その通りですね。この兆しを感知できない人はかなり現代的価値観に洗脳されていると言えましょう。

>ローマクラブが成長の限界と言う提言をして大騒ぎになったのは1970年

そうですね。既にこの時代にこのような事を発表したのは評価に値するとともに、これは理性で考えれば至極当然の事です。私もどこかの記事で書きましたが、この時にはっきり脱成長へ向かえなかったのは人類の愚かさですね。

 「外れた成長の限界の予言」等の反論は沢山出ていますが、どれもお門違いな低レベルな議論です。「成長の限界」を(故意に?)読み違えています。

「成長の限界」は続編は、1992年と2004年に出ています。
こちらは二つとも読みましたが「名著」の評価を致します。
シリーズは後になるほど厚い本になっています。
1970年の「成長の限界」は古くて、続編ほどの内容でもないような感じがして買う気がしなかったのですが、最近ネット販売で中古で見つけて購入しました。
まだ読んでませんが、内容は続編とそれほど変わり無いようです。成長の限界3部作について、記事にしたいと考えています。

>70年の時点で見直しがされたとしても・・・相当変な形の修正でしかなかったでしょうが。

言われてみればそうですね。地球温暖化対策のようなお門違いなものになっていたかも知れません。

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