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2008-04-29 00:03
 日本で飽食の時代と言われて久しくなります。・・・飽食の時代なんて言われはじめたのはいつ頃からなのでしょうか?
 少なくとも太平洋戦争後何年かは、食糧難だった筈です。それからわずか数年で戦後の食糧難が去って、餓える人もほとんどいなくなりました。一時、食料生産も増えたのに、その後日本政府は、工業優先策で農業は冷遇で、食料自給率がどんどん下がってきました。・・にも関わらず、日本は次第に大量に食料を輸入して、食料には困らない国になりました。輸入してまで食べ残す国になってしまいました。・・そしていつの間にか飽食の時代なんて言われるようになりました。・・・その間にも日本の食料自給率はどんどん下がり続けて、昨年には40%を割って39%になったと発表されました。にも関わらず、まだまだ店には食べ物が溢れ、食べ残しが沢山捨てられ、コンビニ等では賞味期限切れの弁当などが沢山廃棄されています。
 中国産、中国製の食品の危険性が騒がれ、国内産がかなり見直され、食料の自給の確保も論じられる事が増えてきました・・と言ってもまだまだお話になりません。
 相変わらず、飲食店やホテルなどでは、宴会でもパーティーでも、口も付けられない料理が大量に捨てられています。そして、テレビでは、お気楽なグルメ番組が放送され、高級食材がなんたらかんたら・・・と浮かれています。
 賞味期限の日付け変更なんて、大した問題ではありません。(嘘は良くありませんが・・)賞味期限が来ても食べられる食品が殆どです。勿体ないからもっと賞味期限延ばしてもいいのではないかと思ってしまいます。食品の偽装表示事件なんて事も枝葉末節かも知れません。もっとずっとシビアな問題があるのです。・・食の確保です。それもよそから買えばいいと言う安易な発想は良くありません。他の国が飢えているのを傍目に経済力にものを言わせて買ってくるやり方はモラル的にも許されないし、もう食糧確保では、のし上がってきた中国などに負ける場面もしばしばです。やはり食は自給自足しなければ話になりません。食糧供給をアメリカなどに抑えられていては、いつまでたってもアメリカの属国です。
 
 現在、農業でも漁業でも持続可能とはかけ離れた方法が行われています。農地は流出し、水産資源は乱獲されています。世界の農業漁業生産量は、現在の水準を維持出来るかはかなり疑わしい状況です。そんな食糧生産事情にも関わらず、飽食の時代・・
 食べ物は粗末にするものではないと思いますが、来年の食料の確保だってままならなくなってきた日本で、「飽食の時代」なんて浮かれていたら、近い将来必ずしっぺ返しが来るでしょう。
 食糧不足は確実にすぐそこまで忍び寄ってきているでしょう。
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【2008/04/29 00:03】 | 食料と人口 トラックバック(0) |

海外にいると、日本の地位の低下が実感できます
サーシャ・ルビニコフ
結構久しぶりにコメントします。一ヶ月ぶりくらいでしょうか?

私は妻の母国スイスに住んで久しいのですが、海外に住んでいると日本の影響力が低下していると実感しますね。
仰るとおり飽食の時代の終わりは近いと思います。個人的には全世界的にというより、まずは局所的に食糧危機が起きてくると思っています(あくまで現在先進国と呼ばれている国に限定すればですが)。

アメリカや日本・イタリアあたりは、巨額の財政赤字が足かせになって財政破綻もしくはそれを回避しようとしても国際的信用の失墜によって買い負けてしまうと考えています。
特にアメリカは、2007年年末にある調査会社が『財政の維持は不可能であり、実質的に財政破綻している』という驚愕の結果が出ています。
私もそれは正しいと考えています。

ブッシュになってからの借金総額は、それまでの歴代大統領がしてきた借金総額を超えています!!つまり、ブッシュ一人でアメリカ建国以来200年以上の借金よりもたかが10年未満でした借金の方が多いのです。
最近のドルの下落ぶりから見ても、基軸通貨としての地位はもはやありませんね。

日本は言わずもがな。イタリアもおそらく財政破綻すると思います。
そうなった時、少産少死時代から少産多死時代になるのではなかろうかと・・・・・・


5.2のために17
サーシャ・ルビニコフさんの

>ブッシュ一人でアメリカ建国以来200年以上の借金よりもたかが10年未満でした借金の方が多いのです。

に便乗します。

指数関数的な増大があるところでは、過去の蓄積を上回る数字が容易に発生します。
例えば博打で掛け金が倍増するとしますと、
 1、2、4、8
と4回勝っても次に
 16
で負ければtotalで
 ー1
となります。

追記
サーシャ・ルビニコフ
過去の記事は軽く目を通しただけですので、間違っていたら御指摘ください。
確か雑草さんは、江戸時代のように貿易などしない自給社会を想定して提案をなされていたと思います。確か日本の人口は4000万人くらいにまで縮小するべきだとも仰っていたように記憶しております。

そのような社会を想定しているのであれば、4000万人でも多すぎるくらいだと思います。
確かに江戸時代の日本は4000万人くらいで安定的に人口は推移していましたし、ほぼ完全な鎖国状態で、自給社会として成立していました。
ただ、人口の9割以上を占める農民・漁師の生活は悲惨そのもので、身売り・姥捨て・人身御供などの伝承は日本各地に残っています。
武士や町人は江戸などの大都市で生産に従事しないのに食料に困らなかったのに比べ、生産に従事する農民などは常に飢えにさらされていたわけです。

現在の世界でも同じような国はいくらでもあって、モルドヴァなどは自給率100%以上にもかかわらず国民の多くは一日1ドル以下の生活しかできません。
問題は購買力の問題であって、たとえ自給率が多くても公平に分配されるなんてことは歴史上どの国家も成し遂げられていません。
江戸時代の日本だろうと、モルドヴァだろうと、農業に依存する国家は大多数の国民には食料がいきわたらないのが常です(北朝鮮などをみれば想像していただけるかと)。

ですので、雑草さんの前提を当てはめてそれでも公平な分配を達成しようとするなら、1000万人でも多いくらいだと思います(あくまで貿易などに依存しない自給社会を前提にしています)。

二年ほど前日本に里帰りしたときに偶然読んだ本で、江戸時代のことをべた褒めした内容のものがあったのですが、そのほとんどが江戸の町だけについて書かれていました。
江戸だけを取り上げて、それが素晴しいと連呼している・・・・・。それでは資本主義は素晴しいといって、世界中にあふれる貧困を見ないのと同じでは?共産主義が絶対に正しいといって、文化・宗教・経済までもをことごとく崩壊させた過去を見ないのと同じなのでは?と思ってしまいます。

アフリカのシエラレオネについてのドキュメンタリーで一人の男性がこう言っていました。
『内戦の頃は金がなくても生きていけた。なにせ戦争っていう仕事があったんだからな。戦争なんて慣れっこだから、誰も気になんてしない。でも今はどうだ?平和なんて言っても結局はゆっくり死ねってことだろ。今じゃ金がなきゃ生きていけない・・・・・・・。内戦の頃が懐かしいよ』

認めたくはありませんが、結局は資本主義のような人間の欲望に忠実な社会を人民が望むのでしょうね・・・・・・

経済大国日本・・はもう終わってますね
雑草Z
    サーシャ・ルビニコフさん

 お久しぶりです。いつもスイスからの書き込みだったのですか?有難う御座います。HNは、本名ではありませんよね?どのような意味が・・?

さて、やはり日本の影響力は下がっていますか?当然ですね。・・ここで巻き返しを図る・・・と言うよりも、先ず、足元をしっかりさせる・・・と言う事で、食糧に限らず国内の自給率を高めることが大切だと思います。

>アメリカや日本・イタリアあたりは、巨額の財政赤字が足かせになって財政破綻もしくはそれを回避しようとしても国際的信用の失墜によって買い負けてしまうと考えていす。

 なかなか鋭い分析です。日本にとってかなり怖いお話で、切迫している問題の筈なのに、日本の政府はその対策をしっかり考えているようには思えません。・・・枝葉末節な事で国会が混乱しています。

 アメリカはいざとなれば国内自給力がありますが(・・おっしゃるように、たとえ自給率が高くても公平には分配されないでしょうけれど・・)日本はまさに砂上の楼閣ですね。

>そうなった時、少産少死時代から少産多死時代になるのではなかろうかと・

 可能性高いですね。経済も人口もバブルのように膨れ上がったつけですね。・・こんなに膨らんでしまったのだから、ある意味当然の事ですね・・・カタストロフィーにならないように、ゆっくり減少、安定着地・・が望ましいから、それを訴えているのですが、・・焼け石に水の感はぬぐえませんが・・やっぱり急激な落下があるでしょうね。
これからの日本は方向転換しなければなりませんが、その方向が非常に難しいでしょうね。逼迫した死活問題になりそうです。

成長を期待した借金は、愚の骨頂ですね
雑草Z
    サーシャ・ルビニコフ さん   5.2のために17 さん

 将来の経済成長を期待しての投資・・・経済の常套手段・・実は自滅への道・・・は成長の限界が近付いてきた現在は、最大の愚策と言うべきでしょうね。21世紀にもなってそんな事をまだやっている世界経済を見ていると、人間は本当に愚かだと感じます。
限界を超えて、維持不可能になり破局の

 >少産多死時代

を迎えるまで気づかないのでしょうか? 

人口は少ないほど余裕が出ますね。
雑草Z
    サーシャ・ルビニコフさん
 
 日本の食料自給率40%弱・・から考えて5000万人、余裕を持たせて4000万人あたりが限界かと考えましたが、実際の数字は分かりませんね。

サーシャさんのご指摘の

>1000万人でも多いくらいだと・・

 と言うのは、かなり極論に感じるかも知れませんが、理があるかと思います。
 持続可能な社会は、余裕を持って少ないほうがいいでしょうから、1000万人以下が望ましいかも知れません。

 昔のように、人間が住むのは限られた土地の部分で、手つかずの大自然が残る大きな土地があちこちにある・・・と言う状態が望ましいのかも知れません。・・それなら日本の人口も1000万人よりずっと少ないほうがいいでしょうね。
 こちらのサイトで何度も書いているように、少子化は望ましい事で、もっともっと推進するべき事なのに、「少子化対策」と称して人口を減らないようにしている政府は近視眼的で、 サーシャ・ルビニコフさんのおっしゃるように

>少産少死時代から少産多死時代になるのではなかろうかと・

 このような環境で、食糧不足で餓えて、必然的に人口が減るという状態になるなら、人間も他の動物と変わりませんね。・・そうなる前に人口調節するのが理性と思うのですが・・先住民の社会でもしっかり存在したようです。

アブラ虫は悪者じゃない
団塊おやじの遺言
今朝の菜園のテレビ番組、父からの教えで土壌消毒をそろそろする時期と有ったがそこで終わってしまった 残念ながら前半は見なかった 親から子供に基本の教えが薬から始まる
土の中の悪い虫を退治して作物を作る・・こんな温室育ちが育つ訳がないと思うのだか゛・・その原因はまずアブラ虫等に負けてしまう作物作りにある 私の天然成分(貝)を掛けるとアブラ虫の活動が止まり作物は生長する アブラ虫は害虫かと言えば 次の世代に弱いものは残さない働きをすると考えて見れば自然です 自然は弱肉強食の世界・・自然の中でアブラ虫は天下を取っていない 世界中でアブラ虫が猛威を奮っているらしい もの凄い量の農薬が散布されている
こんな貝の効果を見ずに・・今の大地は海から隆起したものなら貝は自然ですよね 兎に角 出発点を間違うとゴールは見えない そろそろ虫の出てくる時期です 天然成分の力を皆さんに確認して貰える・・楽しみです 

土の中の虫を退治して作物を作る??
雑草Z
    団塊おやじの遺言さま

 土の中の生物は大抵、腐葉土のような養分の高い土を作ってくれる大切な存在ですが・・それを「退治」ってとんでもない話ですね。・・どうして生態系の共存共栄を考えられないのでしょうかねぇ?
 日本人は極端な清潔好きが増えてしまって困ったもんだと思っていましたが、農家の方々さえも土の中の生態系が嫌いなようじゃ世も末ですね。
 最近田んぼや畑でも生物があまり見られなくなっているのは非常に不気味な光景です。

 ×××× ×××× ×××× ×××× ××××

 細かい事ですが、コメントは出来れば関連記事のところにお願い致します。今回の団塊おやじの遺言 さまのコメントなら、今まで沢山コメント戴いた【アメリカシロヒトリの駆除法】か、最新記事の【人間と他の生物のバランス】あたりが適当かな?・・と。

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2008-04-25 00:03
 ソビエト連邦が崩壊して、社会主義国家の多くが自由経済国家になり、中国の共産主義も名ばかりのものになっています。
 20世紀末のソビエト連邦の崩壊を見て、資本主義社会の気の早い人々は、進歩にはやはり一つの道・・・自由経済、資本主義しかないと結論付けました。
 元アメリカ国務省職員フランシス・フクヤマに至っては、1992年に
「資本主義と民主主義こそ歴史の”終わり”だ」と宣言したと言います。人類の最終到達点を資本主義と民主主義であると断言しているのは、気が早いと言うよりもかなり短絡的で軽率と言うべきでしょう。単に体制と資本家に媚びているだけなのか、思考力の浅い愚か者なのでしょう。

資本主義を賛美する多くの人々は、

 資本主義=自由主義=民主主義

と言う図式
を示しますが、それぞれの概念は別々のもので、セットではありません。
 資本主義の対極である社会、共産主義に対しての図式としてのプロパガンダの成果でしょうか?
 資本主義=自由主義=民主主義 
と言う図式は資本主義の恩恵を十分に受けている儲けている資本家の都合のいい図式でしょう。
 社会主義でも民主主義は謳っています。一応謳っているけれど、社会主義国家のどこが民主主義か?っていう突っ込みは沢山あるでしょうが、原理的には、社会主義国家も民主主義でもなんら矛盾はないわけです。逆に資本主義国家が完全な民主主義でしょうか?
 自由主義経済を謳っている資本主義諸国は、同時に民主主義も謳っていますが、実際は政治に関しても資本主義です。即ちお金のある者、またはその傀儡が政治の主導権を握っています。民主主義といいつつ、金権主義でしょう。今のアメリカ大統領選の例を見るまでもなく、政治家になる為の政治資金は莫大です。
  かつてのナチスドイツのファシズムは、資本主義国家でしたが民主主義とは到底言えません。
 現在の中国は、「人民共和国」と言いますが民主主義とはかけ離れています。そして、実態は、明らかに一部の資本家の為の無節操な資本原理主義的な経済体系となっています。

 
 それらの極端な例を挙げなくとも、現在の自由資本主義経済の「自由」とは、あくまで資本、経済的に自由と言う事です。確かに他の面でも、全体主義国家よりはずっと自由ですが、やはりその自由は、資本・・お金あっての自由・・という場合が多いのではないでしょうか?。資本主義社会は経済力があってこその自由主義・・・的な側面が強いのです。その最たる国がアメリカでしょうか。
 自由主義経済の『自由』は言い方を変えれば『無節操』と言う事になりましょうか?
『自由』はいつでも『無節操』になる危険性を内包しているでしょう。
 現在の資本主義国のほとんどは、金権主義で、資本をより多く持つものが、発言権もあるし、政治にも参加する機会が多いのは明らかでしょう。

 資本主義と民主主義とを同等に語るのは、抱き合わせ商法の類と同じではないでしょうか?

 
 参考文献;暴走する文明 A Short History Of Progress  第1章
              ; ロナルド・ライト Ronald Wright 著 
 
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【2008/04/25 00:03】 | Economic Fascism トラックバック(0) |


くまはは
はじめまして。
多くの人が資本主義=民主主義と思いこんでいます。私もどこかでふきこまれたような気がします。学校教育かもしれません。
社会主義と共産主義の違いもよくわかりませんが、いずれにしても、そういう社会を運営していけるほど、人間は賢くて正しい存在ではないのだと、この頃ではあきらめています。
正義がどこにあるかより、自分の利益はどこにあるかで、多くの人間は動いてきたし、「敵の敵は味方」外交のオンパレードに世界史の勉強をしてて気分が悪くなったほどです。
2008年の現在まで、人類が生き残ってきたのが奇跡のように思います。そしてこの奇跡がいつまで続くのだろうかと。滅びの瞬間を見ることができるかもしれません。

奇跡は続かないから・・構造の変換を!
雑草Z
くまははさん

 はじめまして、コメント有難う御座います。
聡明な内容に頷いてしまいました。

>多くの人が資本主義=民主主義と思いこんでいます。

よく考えると絶対変ですよね!?
資本主義はどう考えても金権主義です。

>そういう社会を運営していけるほど、人間は賢くて正しい存在ではない

 悲しいかな、そういう方々が世の中を動かしていますね。
社会主義にならなくとも、資本原理主義のままだったら、世の中は格差が開いて住みにくくなるだけではなくて持続できないでしょうね。

>「敵の敵は味方」外交のオンパレードに世界史の勉強をしてて気分が悪くなったほどです。

 繊細な学生だったのですね!?
私は学生時代は世界史は興味がなかったのですが、最近、大航海時代からの欧米列強の征服の歴史、文明論を読んで(やっと?)気分が悪くなりました。(笑)
世界の外交戦略は、正義と言う名の自己利益追求の歴史でしたね。

>2008年の現在まで、人類が生き残ってきたのが奇跡のように思います。

 私も同じ感覚です。その答は本文の参考文献にも挙げた
暴走する文明 A Short History Of Progress
にも書いてあります。
 行き詰った西洋文明は、アメリカやオーストラリアなどの新大陸を征服して開発することで、産業革命以降の成長拡大を可能にしたわけです。でもそれももう限界でしょうね。・・もう新大陸は現れません。宇宙開発は愚の骨頂で、地球の破滅を助長するだけです。・・この事(新大陸と経済成長)に関してはいつか書きたいと思っています。

 滅びの瞬間は見たくないですね。無力ながら・・・滅びの瞬間が来ないように社会の構造転換を呼びかける事がこのブログの目的です。

  ++++ ++++ ++++ ++++ ++++

 ところで、記事とは関係ありませんが
面白いHNですね?お子さんはクマなのですか?(失礼!)言葉遊びというより語感ですか?
『はじめまして』とご挨拶交しましたが、お会いした事がある方のような気が致します。

 


くまはは
初めてのつもりでしたが、物忘れがいいので―
はい、「くま」と名付けた犬を飼っています。犬種は…危犬です。

あははは・・・くまはは
雑草Z
    くまはは さん

 私と似たおやじギャグがすっかり気に入ってしまいました。
「くま」と言う名からしてさぞかし・・奇犬・・でしょうね。・・何?こんな下らないギャグ「聴けん?」って?それは失礼いたしました。じゃあもう棄権しますから・・機嫌を直してもっと美しいシャレを考えると致しましょう。 
 

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2008-04-21 00:02
 現在、数年おきに直接間接各国に戦争を仕掛けているアメリカ。アメリカの経済成長戦略には戦争が組み入れられているようです。世界正義を振りかざして、色んな国をプロパガンダで悪の枢軸などと呼んでヒールに仕立て上げていますが、悪の枢軸はアメリカ自身だ!と思っている人も多いでしょう。

 太平洋戦争でアメリカに負けて以来、日本はアメリカの属国のように扱われてきましたし、そのように振舞って来ました。アメリカに憧れる日本人も多く、アメリカの背中を追って来たような感じです。
 かつて・・20世紀後半には、日本人はバナナだ、外見は黄色(黄色人種・・・アジア民族)と言いながら、中身は白(白人・・・欧米人)だ、なんてアジア諸国から揶揄されてきました。・・・しかし最近、日本に限らず揶揄していたアジアの諸国もみんなバナナ状態ではないでしょうか?アジアに限らず、 南米もアフリカも多くがその土地の文化の多くを捨て、アメリカナイズされて来ました。キューバのように孤高を保っている国は珍しい方です。多くの国はアメリカナイズされた指導者が権力を握って、アメリカ型の経済や文化をどんどん取り入れて来ました。
 ソビエト連邦が崩壊した後、20世紀末頃までは、世界の多くの国が、唯一の超大国となったアメリカの背中を追っていました。・・・そう、太平洋戦争に負けてアメリカに占領された日本ばかりでありませんでした。どこが共産主義かわからなくなってしまった次なる覇権国を目指す中国の一部の強欲な資本家たちは、アメリカの資本家の悪しき部分に見習っているようです。中国、インド、ブラジル、東南アジアの国々の人々の多くが、みんな欧米、特にアメリカに憧れて、そんなライフスタイルに憧れて来ました。・・・アメリカンドリーム・・・って、(穿った見方には感じますが)経済成長と開発に夢中な人が好んで使う言葉に聞こえます。(本来はそういう意味ではないのでしょうが)持続可能な社会を破壊する言葉にさえ聞こえます。 

 人口一人当たりのエコロジカル・フットプリントが最高のアメリカの後を追う事は、非常に危険です。持続可能な社会を構築出来ません。エコロジカル・フットプリントの観点からは、世界の人間がアメリカ並みの物質水準の生活をしたら地球は5、6個必要だと言われているのですから。世界の人口が10億人以下まで減らなければ世界の人々がアメリカ人並の生活は出来ないと言うことです。アメリカの富裕層の物質水準を望むなら、1億人でもやっとでしょう・・。

 かく言う私も、かつてアメリカの文化が・・・全てではありませんが・・・部分的に大好きだった時代がありまして、(今でも好きな部分が有ります。)何度もアメリカに行って、愛しのアメリカでの生活を満喫しました。そう、少しばかりアメリカ中毒だったのかも知れません。・・・一方、色んな社会問題などが噴出していたアメリカで、物質中心文明の成れの果ての姿を見た感じも致しました。 
 荒んだアメリカのダークサイドを現在の日本は内包しています。日本ばかりではなく世界の色んな場所がアメリカの匂いを十分に染み込ませてしまいました。・・・世界の各地がアメリカにあこがれアメリカの背中を追いかけ、物質文明のダークサイドを背負い込みました。

 現在、世界は多様化してアメリカの背中を追ってばかりではないように見えますが、その実、アメカ型の物質浪費文明の形を変えたに過ぎないものが沢山あるでしょう。望むと望まざるとに関わらず、アメリカンスタイルの物量作戦を脱しなければ、持続可能な社会の構築は無理でしょう。   
  
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【2008/04/21 00:02】 | 国際社会 トラックバック(0) |
2008-04-17 00:03
再生可能[renewable] な資源・・・森林資源、水産資源、水などは、消費量と再生量のバランスが適正に保たれれば、永続的に資源として使うことが可能です。鉱物などの地下資源のように再生不可能な、実質減る一方の資源とは異なります。  
 
 
 再生可能な資源の永続的に使える為の条件はいたってシンプルでしょう。
 消費量が再生のペースを上回らないこと・・・つまり行き過ぎないことです。・・そして、行き過ぎているかどうかの判断も至って簡単でしょう。ストックの収支が全体として減少していれば、行き過ぎです。それが限界を超えた証拠です。

 さて、先に挙げた代表的な再生可能な資源、森林、水産資源は現在明らかに減少しています。
 北海のタラの例だけでなく、20世紀から21世紀にかけて枯渇した漁場、枯渇しかけている漁場は沢山あります。1990年あたりに世界の漁獲高がピークを迎えてそこからは漁獲高が減っていますが、その1990年だって、魚が増えた訳ではなく、魚を根こそぎ獲る技術・・・底引き網、流し網、レーダー やソナー、衛星を使った探査が発達したための乱獲が原因です。
 森林も熱帯雨林だけでなく、日本国内でも諸外国でも面積は減っています。良質の森林である」原生林も減っています。世界中で森林が工業用地、宅地、農地、道路などに変わり、山火事で燃え、最終的には砂漠化しています。
これらは「明らかな事実」ではないでしょうか?
 代替不可能な最も重要な資源は水と言われますが、森林だって、水産資源だってごく限られた部分の用途を除けば代替不可能な資源でしょう。
つまり、再生可能な資源でさえも、持続可能な限界はとっくに超えているのは明らかです。
 最近、環境問題の名の元に、再生可能な資源の浪費が目立っています。カーボンニュートラル(カーボンオフセット)の謳い文句でバイオマス燃料ももてはやされていますが、森林に限らず、植生の面積が減りつつある現在、森林や畑をバイオマス燃料の材料栽培に回すのは愚かと言うべきでしょう。
 ゴルフ場や工場を潰してバイオマスを育てるのなら意味もありますが、そうでなければ、バイオマス燃料も再生可能な資源の乱用と言うべきでしょう。

 再生可能といっても、再生には時間とエネルギーと環境が必要です。再生可能な資源でも、再生速度を上回る消費速度では、資源が枯渇に向かうのは当然です。現在、限界を超えて枯渇に向かっているのです。

 森林資源や水産資源は現在明らかに減少しているから危険です。それにこれらを再生可能な「資源」とだけ見るのは危険でしょう。森林も水中生物も生態系の要です。森林の乱伐、水産資源の乱獲は、生態系に致命傷を与え、数々の生物の絶滅、そして全ての生物の存亡の危機となるでしょう。
 再生可能な資源を沢山育て、沢山使う・・・と言う事はもはや持続不可能なくらい消費量が増えました。・・指数関数的に増えて限界に達しました。
『再生可能』と言う言葉に惑わされずに、使用量を減らす事を第一に考えなければ、消費過多で、ストックが枯渇に向かう事は議論の余地がないでしょう。
 再生量よりも消費量が上回った現在、言い換えると、持続可能な使用量を超えてしまった現在、人間が何よりもしなければならない事は、使用量を控える・・ 持続可能なレベル以下に・・・の一言に尽きましょう。勿論限界ぎりぎりに挑むのは愚かです。森林も水生生物も、人間の資源としてのみ存在している訳ではありません。 生育環境の保全も大切ですが、再生に十分に余裕のあるところまで、消費を減らす事が最良の対策でしょう。 
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【2008/04/17 00:03】 | Economic Fascism トラックバック(0) |
2008-04-13 00:02
 21世紀を迎えてかなり経っても依然として日本各地で宅地造成は止まりません。かなり昔からずっと途絶えることなく各地で行われています。それも森林や田畑を潰して行われています。いつになったら新たな宅地造成がなくなるのでしょうか?

 宅地造成は、町の中心部から徐々に何十年もかけてドーナツのように郊外に開発されてきました。それでも依然として宅地造成は続けられています。
 私の町の周辺でも、今でもあちこちで新興住宅地が開発され、宅地が造成されています。林や田畑が潰されていきます。魚が泳いで沢ガニまでいた川が無惨に三面張りにされ、ザリガニすら見つからなくなって、どぶのようにヘドロがたまってしまった所もあります。・・町の人口は減っているにも関わらず、このままでは宅地は山を越えて隣町まで繋がりそうです。
 新興住宅街の場所にはかつては林があり、草が生え生態系が存在しました。田畑があり作物が実りました。小川には魚や様々な生物が棲んでいました。・・その小川は地下を流され見えなくされています。一見こぎれいな新興住宅地の風景を見る度に心が痛みます。


 日本の人口は、2005年あたりから減少に転じはじめました。(これは歓迎されるべき事です・・このブログで何度も書いています。)
 それなのに高層マンションや新興住宅地がまだまだ作られています。確かにそのニーズもあるのでしょうが、一方マンションや宅地を作っても入居者が埋まらなかったりしています。ゴーストマンションやゴーストタウンも昔栄えていま人がいなくなった・・・というのではなく、はじめから人が入らなかった・・ という所も沢山現れています。従来の住宅地に空き家が増えたり、旧商店街がシャッター街になっているのは身近な場所で沢山起こっています。そして、それに伴う色んな地域の問題も起こっています。古い町並みを過疎化させて、新たな里山、田畑や森林を切り開いて宅地を造るのはいかがなものでしょう?

 現在でも宅地造成は、雑木林や田畑を潰して行われている事が多いのです。身近な里山の林や沼や湿地が潰され、コンクリートで固められ、道路が造られ、小川は三面張りやU字溝が埋められます。明らかに自然破壊です。生態系の破壊です。そこの地域から絶滅してしまった種も沢山あるでしょう。
 エコロジカル・フットプリントの観点からも宅地造成は好ましくありません。日本では食料自給率も悪いのに、田畑を潰すなんて許される事でしょうか?(農業の後継者不足の問題はありますが、それはまた別の問題、対策があります。) 

 特別な自然保護地区を守ることも大切ですが、地域の里山を守る事も非常に大切な事です。アマゾンの熱帯雨林を守ることも大切ですが、日本の里山も守るべきです。
法律の網をくぐって森林や農地を宅地に変えて造成する悪しき慣習はそろそろ終わりにしなければ、人類の存亡にも関わります。人間だけが自然の生態系から切り離されている筈がありません。こんなことを続けていたら、人間社会はもうすぐ終わってしまうでしょう。

 森林を破壊して滅んだ古代文明の教訓が生かされていません。
 もうこれ以上の宅地開発は法律で全面禁止にすべきでしょう。土地開発業者は、ただの生態系の破壊者です。住宅販売は中古住宅やもともとの宅地で十分でしょう。必要最小限、これまで住宅地だった場所の再開発だけにすべき(それも、あまり手を加えずに・・)です。別荘なんてもっての他です。これ以上、森林や草地、田畑を開拓しての新たな宅地開発は法律で全面禁止にすべきです。一刻も早く・・・
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【2008/04/13 00:02】 | 都市/文明 トラックバック(0) |

ミャンマーのサイクロン被害
おかっぱ頭
 最大の被害を受けたイラワジ川流域のデルタ地帯も、住民の居住地などいった開発をするために、マングローブの森が毎年伐採され、この十数年で半分以下の面積になってしまったとの事です。
被害を大きくした原因としてこの開発、伐採が指摘されていますが、以前のような森があれば緩和されたはずの強風、高波、2メートル以上の水がまともに押し寄せてきて、犠牲者の多くが子供達だったと言うのですから、とても嘆かわしい事です。

災害から生命を守る役割も果たしてくれている自然は寧ろ崇拝すべきもので、開発という名の破壊行為は犯罪として問われるべきだと思います。

開発と言う名の自然破壊
雑草Z
    おかっぱ頭 さん

 一体、自然破壊を伴わない開発ってあるんでしょうか?
「開発」って、地元の為と言いながら、開発業者と利権絡みの一部の地元の人の金儲けなどが目的ですね。その為に

>災害から生命を守る役割も果たしてくれている自然

が破壊されたのですから、おっしゃる通り、

>犯罪として問われるべきだと思います。

ですね。その懲りない面々は厳罰に処するべきでしょうが、政府も彼らと癒着しているところが構造として腐れ切っている部分ですね。

 ミャンマーのサイクロン被害は人災の部分が大きいですね。
開発による自然破壊が直接の原因に決まっているのに、地球温暖化のせいとかにされて責任の所在がうやむやにされて欲しくないものです。

先人の智恵
おかっぱ頭
癒着に利権に、
自然を壊してお金儲けをするってすごく腹立たしい事です。
記事にも書かれてらっしゃるように、森の存在が文明を左右しますよね。
江戸時代の人々は、山の三割程だけを里山として人間が使う事にしていたそうです。残りは手つかずの自然林。この割合を忠実に守っていたから、動植物が共生できる豊かな暮らしが出来ていたそうです。
素晴らしい事ですね。現代人はこれを見習うべきですね。




現代人が失ってしまった感覚
雑草Z
    おかっぱ頭さん

 早速のオヘンジ有難う御座います。

>自然を壊してお金儲けをするって

 かけがえのないみんなの共有財産を自分達だけの利益にする事で、許されざるべき事ですね。それが今は、良心の呵責を感じないでやってしまう人間の「早い者勝ち」・・みたいなところがあって、厭ですね。もっと取り締まるべきです。

>江戸時代の人々は、山の三割程だけを里山として人間が使う事にして

 こういう先人の知恵はずっと受け継ぐべきですね。・・それが途切れたのも・・強欲で愚かな人間の身勝手な行動によるものですね。

 破壊された環境の修復にお金をかけるのではなく、はじめっから破壊しないことですよね。

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2008-04-09 00:02
 ここのところ日本では、アメリカを真似て、収入に格差を付ける方向に動いています。日本に限らず、世界の多くが格差社会と言われています。貧富の格差はどんどん開いていくばかりです。そりゃそうでしょう。自由資本主義経済社会では、富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなっていくフィードバック作用が働くのは明らかでしょう。
 その対策として言われている事は、貧困層の救済ばかりです。富裕層の規制ということは叫ばれず、貧困対策にのみ目が向かわせられているのは、政治的にも権力を持っている富裕層の戦略でしょうか?富裕層は税制でもますます優遇されていって不公平感は積もるばかりです。貧しい国の何百万人もの国民全部の財産よりも多い財産を一個人が持っていると言う現状は、狂っていると言うべきでしょう。

 前回書いたように人間の感覚は対数関数的だと言っても、同じ時間働いて、収入が何十倍も何百倍も違うのはおかしいでしょう。
 金持ちが悪だと言えば共産主義か?と言われそうですが、
持続可能な社会の構築に置いて、富=資源  を一人で沢山使う事は、許されざる事です。それはエコロジカルフットプリントの観点からも明らかでしょう。

 やはり前回【対数関数的感覚】で書いたように、金持ちをより儲けさせる事ほど空しい事もないでしょう。金持ち一人が達成感を味わうのと同じ金額で、何百、何千倍の貧しい人間が同じ達成感を味わう事が出来るのです。


 そこで一つの提案ですが、社会主義とは言わないまでも、収入に上限をつけて、それ以上は国が没収と言うのはどうでしょう?(現在日本のような官僚社会では、その没収財産をしっかり管理しなければなりませんが・・・苦笑)
 例えば、日本で言えば、年収一千万円なり、五千万円なり、ある程度十分な収入以上の年収は、みんな没収・・・まあその上限の金額は検討課題として・・

 そんな事したら、年収が上限に達したら有能な人物が働かないのでないか?
とか言う輩がいるでしょうが、結構ではないですか!! 世の中にはお金にならないボランティアなどで働いている人間は沢山います。十分にお金があるのにお金にならないのなら働かないなどと言う輩は働かないほうが世の為人の為です。環境にもいいに違いありません。滴下理論[Trickle down Theory]なんて、御用経済学者が唱えた富める者をさらに富めさせる為のとんでも理論です。・・。有能な能力が勿体ないのではなく、悪知恵や人を蹴落として自分だけいい生活をしようと考える輩を封じ込めるのです。

 例えば日本だけでそんな事をしたら、頭脳流出ではないか?と考えられますが、彼等は持続可能な生き方をしてないどころか、一人で何人分もの環境を破壊しているのですから、そんな人間には出ていって貰えばいいのです。持続可能な社会にはグローバリズムはありませんから、国際競争はありません。
まあ、そう言う人間が集まれば、かつての列強諸国のように他の人々を侵略して征服する事を企むでしょうから、それは要注意でしょうか。

 悪平等の社会の必要はありませんが、現在の途方もない格差社会は、悪不平等と言うべきでしょう。そんな悪不平等を解消する一つの試作として、収入打ち止め制を提案させて戴きました。収入上限ではなく、財産の上限でもいいでしょう。年収ではなく生涯給のほうが合理的かも知れません。勿論実行に当たってはクリアしなければならない問題は色々あるでしょう。  それ以外にも格差解消の方法も色々あるでしょう。しかし、有限の地上で、一人で膨大な 富=資源 を所有することは、許されざる事です。一人で、限りあるエコロジカル・フットプリントを使ってしまうことになるのですから。それを不平等とみなして解消する方向に動く事は持続可能な社会を築く為の必要条件でしょう。
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【2008/04/09 00:02】 | Economic Fascism トラックバック(0) |

法制度などの観点からして、実効性も有効性も低いように思えますが・・・
サーシャ・ルビニコフ
何日かぶりに来ました。
来る度に面白く読ませてもらってます。

こういう解決策は結構前からありますが、トリクルダウン理論云々の前に法制度などの観点から実行できないでしょうね。まさに共産主義国家か全体主義国家とかにして強引に執行しない限りは・・・・・・

資産上限の方についても、フランスなんかは富裕税で資産家(資産200万ユーロ=約3億円程度以上の資産を持つ人対象)から追加に税を徴収しようとしましたが、思ったほど成果が上がっていないのが実情なんです。

個人的な研究結果で申し訳ないのですが、その原因(もちろんひとつだけではありません。問題は単一の事柄から発生しているわけではなく、複雑に絡み合っているのが世の常ですから)は合法的な抜け穴がいくらでも存在するということです。

富裕税の例で言うと、モナコなルクセンブルク・スイスに資産をプールされると何もできなくなることです。顧客の守秘義務を徹底している国に資産を移されると手出しできません。もしした場合は他国の主権侵害に該当しますから。
また、フランスなどは国債などの一般債権を担保にして金や銀の現物を購入し資産税から逃れるという手段だってあります(長期国債保有者は非課税です。金や銀は先物でない限り当然非課税)。
サルコジになっても、資産税は残ってますが事実形骸化されているようなものなので関心にも上らないんでしょうね。資産税より所得税とかの方に関心があるんですから・・・・

なので、提案としてはいいと思うのですが、有効性また実行性の観点から疑問が残ります。
ところで個人的な提案なのですが、現在の通貨管理制度から金(もしくは銀)本位制度に立ち戻ることなどはどうでしょう?

現在の為替の取引量は、世界の通貨供給量の10倍以上といわれています。また、金融資産(実質資産+株式評価損益+債券発行残高)も実質資産の3倍以上です。
これは信用創造によって成り立っているわけですが、1971年のニクソン・ショック以来増加し続けています。通貨管理制度になって、信用さえあれば通貨を発行できるようになってしまったわけですから・・・・・
これが世界中の金余りの主因です。
金本位制度(銀本位制度)になれば、金(銀)の所有量に応じてしか通過を発行できなくなります。よって信用創造は抑制されます。

よって、今金(銀)本位制度に戻れば、1929年世界大恐慌をはるかに凌ぐ経済の後退が起こるでしょう。しかもかなりの期間(30年くらいは不況が続くのでは?)。それほど今の我々は『信用』に支えられているのです。
これ以上の経済成長を止めるなら、これくらいでないとダメではないでしょうか?
ただ、東欧・中欧諸国の現状を観たことのあるだけに、そうなった時の世界は人身売買とか麻薬取引などが跋扈するようになるんでしょうね・・・・・・
そう考えると、資本主義も必要悪なのではないか?絶対あくと言い切れるのか?とも思ってしまう自分がいたり。難しいですね

金本位制に戻るほうが実現性は高いかも知れませんね
雑草Z
    サーシャ・ルビニコフさん

いつも深いコメント有難う御座います。個人的研究結果の合法的抜け穴も興味深く読ませて戴きました。

 この前【対数関数的感覚】のコメント
http://zassou322006.blog74.fc2.com/blog-entry-284.html#comment987
で、 5.2のために17さんもおっしゃっていましたが、
ペーパーマネー、電子マネーのバブル的性格の危険性ですね?収入上限制度も、金本位制度に戻ることももどちらも実現は難しいでしょうが、どちらも実現したいものです。どちらも環境問題にも関わることですが、目指すものは多少違いますね。

 収入上限制(収入打ち止め制)は、格差社会対策で、悪不平等対策

 金本位制は、電子マネーによる信用創造は抑制ですね。世界破滅への経済成長抑制の働きもあるわけですね?・・格差是正とはまた違った側面ですね?
 ここまでペーパーマネー、電子マネーが蔓延った世の中では、やはり実現は大変でしょうが、マネーゲームによるバブル経済の抑制には有効でしょうね。

>資本主義も必要悪なのではないか?絶対あくと言い切れるのか?とも思ってしまう自分がいたり。難しいですね

 はその通りだと思いますが、
自由市場原理という名の無節操な自由資本主義は、弱肉強食が過ぎて人間性が荒みます。しっかりしたセイフティネットが必要でしょうね。・・・そういうお金を富裕層から取るためにも収入上限もいいかと・・
 まあどっちにしろ、この市場原理主義は持続不可能社会の象徴であり、文明崩壊につながるでしょうから、必要悪とは言えないでしょう。何事も限度を踏まえることが必要でしょう。


  


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2008-04-05 00:13
 指数関数的増加、または等比数列的成長というのは、成長の限界などの説明の時に良く引用される原理です。この極めて理に適った自然の原理に対して人間の感覚はなじまないと言うか対応出来ないようなことを色んな本に書いてありますが、私はそうは思いません。人間(や他の動物)の感覚は指数関数的増加に対応しているように出来ていると考えます。
 つまり、入力 x、出力 y として、 入力 x の指数関数的に出力 y が出力されたとき、人間の感覚はちゃんと出力 y の対数的に入力 x を感じ捉えるのではないかと考えます。
 面倒な表現になってしまいました。言い直すと、指数関数的自然の世界を眺める人間(や他の動物)の感覚はそれに対応するように対数関数的な感覚になっているのではないかと言う事です。

・・これでも分かりにくいでしょうか?。

 じゃあ、具体例で述べてみましょう。
 例えば音階。音は半音上がる毎に振動数は、2^1/12=1.059463・・・・倍になります。1オクターブなら、振動数は2倍ずつになります。つまり振動数は音階が上がる毎に指数関数的に増加します。この半音を人間は等間隔と感じるならば、まさしく音の高さに対する感覚は、対数関数的と言えるでしょう。同じ音程を同じ間隔として捉えることが対数関数的と言うことです。「同じ間隔」という感覚が曖昧と言うのなら、それが耳を通した脳に同じ差として感じさせると言うことです。転調を考えればわかりやすいでしょう。あるメロディーの音をすべて同じ高さだけ(=同じ数の半音分だけ)ずらして聞いても同じメロディーに聞こえます。また、ある和音構成音を全て同じ高さだけ(=同じ半音の数だけ)ずらしても同じ響きの和音に感じます。つまり、同じ振動数の比ならば、同じ音程に感じることは音楽の基本です。
 これで、耳と脳は十分に指数関数的なものを対数関数的な感覚で捉えていると言う事になるでしょう。
 音に関しては、高さだけでなく大きさも、例えば音量の単位のdb(デジベル)なども、対数関数です。確か明るさの単位も対数関数でしょう。(星の明るさの何等星と言うのも対数でしたね。)

 酸性度の指標として使われているpH(ペーハー)も、何となく非常に人為的な感じは致しますが、まさに対数です。これを対数で表示しなかったらかえって分かりにくいでしょう。つまりpHは、人間の感覚にマッチした表現方法だと言うことです。
 数を指数表示したときにその指数部分だけで数を表現するのは、非常に感覚的に優れた方法でしょう。それが対数関数的表示法で、対数関数的人間の感覚にマッチしているということです。

 等比数列を幾何数列[Geometrical Progression]と呼ぶのは、等比数列的に大きくなっていくものを順に並べると視覚的に美しいからではないでしょうか?(これは私の推測ですので間違っていたらご指摘お願いいたします。)

 以上、人間(や他の動物)は、自然界の指数関数的傾向に適応する為に、感覚が対数関数的になっていると言うのが私の主張です。


 さてそこで、
成長の限界  人類の選択[Limits To Growth /the 30-year Update]
 (30年アップ・デート版)
   Donella H Medows , Dennis L Medows , Jorgen Randers  著 
    枝廣淳子 訳

の話になります。
 この本自体は非常に名著だと評価致していますが、今回はこの本に多少もの申します。この本には、
「ほとんどの人は、成長とは直線的なプロセスだと思っているので、あっという間に非常に大きな数になる幾何級数的な成長に惑わされてしまう」・・・という一節があります。 確かにそう言う面は否定出来ませんが、それは人間社会が数を定義し使いはじめた時に等差数列的に使いはじめたからであって、もともとは人間の感覚は、寧ろ等比数列、指数関数に対応する頭・・対数関数的になっているのではないかと考えます。

 だから、前回の記事の「池を覆う悪性のスイレン」の例も、ある日スイレンが池の水面の4分の1を覆っていて次の日に2分の1を覆っていたら、その翌日には全面を覆うと言うことは、感覚的にわかるのではないかと思います。わかると言うよりも、普通にそう感じるものでしょう。感覚的に分からないとしたら、それは人工的な線形関係に慣れてしまって頭で数値で等差数列的に考える為ではないでしょうか?少なくとも視覚的には等比数列的に感じる筈です。
 直線的なプロセス的感覚と言うのは、算数教育の弊害ではないかと私は考えます。・・・だからと言って、小学校から指数関数を教えよ・・って事を主張するつもりは有りません。(私は、小学生にも分かりやすく教える自信はあります。・・上の記事のように分かりにくくはなくです・・笑)等差数列的数の取り扱いはそれはそれで非常に有効ですし・・。でも、pHなどの例にもあるように、対数的数の取り扱いが自然界を記述するときに非常に有効なのは、自然界が指数関数的世界で、それに対応する生物は対数関数的感覚を持っているからではないでしょうか。
 これは客観的事実のようで、主観的捉え方の話になってしまうのですか・・

    +++++++   ++++++   ++++++   ++++++
 
 さて、最後にこの対数関数的感覚を使った小話というか、応用・・を一つ

 人間の金銭感覚も対数関数的感覚であるとすると(考えればそれは結構理に適っていると思います。)金持ちがお金を儲ける事ほど非効率な事はないという事になります。

 対数関数的感覚でいえば、例えば年収が増える場合、対数の底が何であろうと(1以外の正の数・・笑)その一定の底で対数を取った時に同じ差の場合同 じ満足度の差と考えます。
 具体例でいいます。年収100万円の人が、年収200万円に増えたときと、年収1億円の人が年収2億円に増えたときの満足度が同じと言うことです。・・・同じ1億円で、年収倍増という同じ程度の喜びを年収1億円の金持だったらたった1人、年収100万円の人だったら100人もかなえさせられます。
 そしたら、金持ちの年収を増やすことの方が、能率は悪いですね。つまり金持ちをさらに儲けさせる事ほど達成感のないものはないと言うことになりましょう。(笑)
 
 いや、冗談ではなく・・・この手の話は世の中にいくらでも転がってます。指数関数的世の中を対数関数的感覚で議論しないからおかしな事になっている問題が多々見受けられます。
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【2008/04/05 00:13】 | 雑談 トラックバック(0) |


5.2のために17
>人間の金銭感覚も対数関数的感覚であるとすると

そんなに難しく考えなくても、人間にはちゃんと満腹中枢がありますよ(笑)。
胃袋ではなく金袋を持ち歩いて物理的に現金を詰め込むようにすれば、自ずと意識改革するのではないでしょうか。

お金に関しては、満腹中枢が機能していない現実
雑草Z
    5.2のために17さん

 満腹中枢は大切ですね。仰るとおり、物理的に現金を持ち歩けば、お金に対する満腹中枢も機能するかも知れませんね。・・目に見える財産を沢山ため込む事をステータスシンボルと思っている金持ちも沢山いますね(笑)。
 5.2のために17 さんのご意見はごもっともですが、それは、ペーパーマネーや電子マネーの危険性に対する対策で、対数関数的金銭感覚の事とはまた別の次元ですね。
 格差是正の為には、金持ちに回る金を貧困層に回さなければならないと思います。それが次の記事の主題ですが、丁度4月9日アップ予定の次の記事の内容を先取りしたようなコメントです(笑)。

はじめまして
通りすがり
はじめて書き込みさせていただきます。よろしくお願いします。

人間の感覚が対数的であるという指摘は、心理学の「スティーブンスのべき乗則」「ヴェーバー・フェヒナーの法則」と関連が深いと思いますので参考にされてはいかがでしょうか?(すでにご存知かもしれませんが…あしからず)

またちょっと気になったのですが、幾何級数という言葉は決して死語ではないと思いますよ。数学・自然科学分野の論文検索でも大量に引っかかるので、まだまだ第一線の用語と感じます。(数学論文のヒット数に関しては「超幾何級数」によるところも多いですが)

指数対数は自然を表現するときの基本ですね。
雑草Z
    通りすがりさん

 はじめまして、こちらこそ宜しく・・・と、言いたいところですが「通りすがり」・・というHNでは、もうコメント戴けないかも知れませんね(笑)。以前にも同じようなHNの方からコメント戴いた記憶有りますが、「はじめまして」と言う事は違う方ですね?

人間も、おそらく他の動物も、視覚も聴覚も味覚も対数関数的でしょうね。これは、生物に限らず世界のつくりが指数関数的に出来ているからでしょうね。・・・不明瞭な議論ですが・・。
 さて、「スティーブンスのべき乗則」「ヴェーバー・フェヒナーの法則」と言うのは全く知りませんので、機会があれば読ませていただきます。対数的感覚と言うのは、昔から考えている事ですが、ある意味自明な事でしょうから・・線形関係と言うほうが特別な関係である事は、本文に書いた通りです。


>幾何級数という言葉は決して死語ではない

確かに死語ではないですね。表現が不適切かも知れませんでしたね。
大げさで紛らわしいので、死語にすべき表現とでも言い換えましょうか?
高校の教科書に出てくるように、
「等比数列」
と言えば済むものを、
「超幾何級数」なんて言われた日には、どんなに凄い数の概念なのかと恐縮してしまいます。(笑)
どうしてこんな表現を使うのでしょう?
確かに本文にもかいた通り
Geometrical Progression
の直訳ですが、英語のほうでも日本語のように
Equal Ratio Progression
とでも表現したほうが、よっぽど明瞭でしょう。
第一「級数」って、
「数列」の意味と「数列の和」の意味を混ぜこぜに使ってませんか?
 まあ、「幾何級数」のほうが表現的に重みがありましょうか?

 ×××× ×××× ×××× ×××× ××××

 本サイトは、環境問題、反経済成長のサイトですので、この本文のカテゴリーは【雑談】にしましたが、この手のお話は好きですので、またご指摘等あれば、宜しくお願いします。

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2008-04-01 00:12
 Xを入力変数、yを出力変数として、
 抵抗が一定のもとでの電流と電圧の関係のように、y=mX
 のような比例関係で増加するものって自然界には、殆ど見当たりません。
 比例関係でなくとも、比例定数 k がついて   y=mx+k
 の形の線形関係のものもあまりないでしょう。
 自然界に存在するものに直線はあまりありません。直線が人工的な感じがするように、線形関係って非常に人工的な関係の感じが致します。
   
 それに対して、指数関数
 y=a^x  の形って自然現象の基本の一つでしょう。
この形に増えるものの特徴は、増加率がそのときの存在量に比例するということです。この方がごく自然に理性的に受け入れられる増加の仕方でしょう。

 よくある例がバクテリアの増え方です。
 例えば、バクテリア1個体1時間あたり1回分裂して2つになるとします。
 はじめに1個体(バクテリアの数は、「匹」でも「個」でも変だから、「個体」にします・・笑)だったバクテリアは、1時間後に2個体、2時間後に4個体、3時間後に8個体・・・・10時間後に1024個体[=2^10・・・2の10乗]となります。20時間後には、1024の2乗で1048576個体[2^20=(2^10)^2]、1日=24時間後は、それに2を4回掛けて、16777216個 体です。
 つまり、バクテリアは24ステップで1600万倍以上に増殖するのです。
 
 生物は、食料と増える空間が十分にあり、生存環境が良好なら、このように増えるのが自然の摂理です。理に適っています。
 これに対して線形の増加というものは理に適っていないので非常に考えにくいでしょう。つまり、現在の個体数が1であっても10000であっても、1時間後の増加量が同じ数・・例えば1個体・・という事は、かなりの強制力がなければ起こり得ないでしょう。1ステップで2つに分裂する筈の10000個体のバクテリアのうちたった一つしか分裂しない訳ですから・・。

 つまり、指数関数的増加というのは、それぞれ1個体当たりの増加率が一定という極めて理性的な増加の仕方です。
 放射性元素の崩壊は、増加ではなく減少の例ですが、きれいに指数関数的に減少していきます。生物と違って、崩壊前の元素に、古い、新しい(若い、年とった)の区別がなくて、極めて確率的なだけであるところが面白いところです。

 もう少し高等な生物なら、雄と雌がいて、分裂ではなく、親の個体も生き残り、ある程度経つと死ぬというちょっと複雑な形になりますが、それでも基本形は指数関数でしょう。
 
 指数関数的な増え方をするものの特徴は、既に存在する量(個体数)に比例して増えていくものです。言い方を変えれば1個あたりの増加率が(確率的に) 一定と考え得るものです。だからそれ自体が自己増殖するもの・・生物はすべてこの例に当てはまるでしょう。・・・勿論食料とか空間とか十分にあって、生存環境も良好な場合です。

           ++++++   ++++++   ++++++   
 
 さて、生物以外に人間社会で指数関数的増加傾向のあるものが何かと考えてみます。

 先ず、自己増殖性を持っているものから考えます。銀行での預金(複利の元利合計)は勿論指数関数です。資本の自己増殖性からくる考え方でしょう。
 例えば工業資本、工場で大量生産をすれば新たな工場を作る資本が貯まります。それだけではなく、自己増殖性を持った工業製品も沢山あります。製鉄所が作る鉄鋼が新たな製鉄所も作るし、他の工業製品の部品も作ります。工場で作った製品で儲けた資本の使い道にもよりますが、その何パーセントを事業拡大に回すかを固定すれば、指数関数的増加になるでしょう。
 
 次に自己増殖性を持っていないものを考えます。自己増殖性を持っていないものでも、自己増殖性を持っているものに比例して増えるものは、指数関数的に増えるでしょう。
 例えば、食料の消費量は、指数関数的に増える人口に比例していますから、人口と共に指数関数的に増えます。
 金属資源や石油や石炭などの地下資源の消費量は、人口にも比例しますし、一人当たりの消費量も増えているので、(人口)×(一人当たりの消費量の平均)に比例するわけです。これも指数関数的増加傾向を持っている事になります。
 ゴミ、廃棄物の量も同様に、人口と一人当たりの消費量に比例しますから、指数関数的増加傾向を持っていることになります。 


 さて、ここで問題があります。地下資源の生産量は、指数関数的に増えてきましたが、地下資源は、生産と呼ぶのは間違いで、ただ、地下に眠っているはじめから存在する資源を掘り出しているだけです。言わば倉庫の在庫品を消費しているだけです。だから「消費」と表現させて戴きました。同様に、廃棄物の捨て場も、人口の広がりもみんな有限な地球で行われていることですから、指数関数的増加は、続けられる筈がありません。資本の自己増殖性などというものも、資源があってのお話です。資源に限りがあるのですから、資本の自己増殖性も、無限に続く筈もなく、頭打ちになるものでしょう。
 指数関数的増加は、バクテリアの増え方で見たように、時間の関数として、すぐに規模が桁違いに途方もなく大きくなり続けるのですぐに限界に達します。それが「指数関数的成長」と言う名の脅威です。経済成長は、前年比何パーセントで定義している通り、指数関数的成長を期待されています。工業資本だろうが、なんの資本だろうが、有限の土地、資源の有限の地球上で、指数関数的な無限の成長が出来る筈はありません。無限の指数関数的経済成長を期待している多くの人々は愚か者に違いありません。

 いや、指数関数的増加は一時的なもので、ちゃんと途中で成長はやめて安定する・・という学者も沢山います。・・・そりゃそうでしょう、有限の地球で指数関数的増加を続ける事は不可能です。間違いなくすぐに限界に達します。・・・安定に達した・・・と言うよりは、限界に達して、これ以上増加は物理的に無理・・と言うべき場合のほうが多いのではないでしょうか?例えば、現在の経済と人口の規模・・・20世紀あたりは地域によって、超指数関数的に増加した時期がありました。そして、現在はどう考えても行き過ぎです。・・恐いのは、行き過ぎてもなおいまだに成長している事です。『安定』するためには、大きなダウンを経なければならないのです。


 よくある話としてフランスにあるなぞなぞをちょっと改作してみます。
 あるところに池がありました。ある日、この池に悪性の睡蓮が数本生えていることに気づきました。翌2日目は睡蓮の数が2倍に増えていました。そのままにしておくとスイレンは毎日2倍に数が増える事がわかりました。(池を覆う面積も2倍になるものとします。)この睡蓮が池を覆い尽くすと池に住む他の生物を窒息させてしまいます。長い間睡蓮は、ほんの少しにしか見えなかったので、そのままにしておきました。50日経っても 池の0.1パーセントくらいしか覆っていませんでした。55日経って3パーセントほどになりました。それから4日後の59日目に池の半分を覆ってしまったので、慌てて睡蓮を抜く計画を立てはじめました。でもその翌日の60日目に睡蓮は池を覆い尽くし、池の生物は窒息して死滅してしまいました。
 もしも、池の面積が2倍でも、あと1日長く持つだけです。・・そう、2倍ごとに一日なのです。この池の面積の1000倍の面積の湖でも、さらにたったの10日で、睡蓮は水面を覆ってしまうのです。
 これが、指数関数的増加の恐ろしいところです。 増加率が目立ち始めたと思ったら、いきなり桁違いに増えて行きます。量が多いと気付いた時には、手に負えないほどの増加率になっている事がしばしばです。少し前には途方もなく遥か先に存在していた筈の限界をあっという間に超えてしまうのです。
 

    ××××  ××××  ××××  ××××  ××××

余談です。
 この記事の参考文献は一応

成長の限界  人類の選択[Limits To Growth /the 30-year Update]
 (30年アップ・デート版)
   Donella H Medows , Dennis L Medows , Jorgen Randers  著 
    枝廣淳子 訳

 です。

このシリーズなどや経済学の本には
私が用いた『指数関数』の変わりに、『幾何級数』という用語がしばしば使われています。
 私はこれには2つの理由で、違和感があります。
 
 先ず、『幾何級数』なんて死語ではないでしょうか?死語ではなくても、非常にレトロでレトリックな感じが致します。『等比数列』もしくは百歩譲っても『等比級数』と表現すべきでしょう。・・・『級数』は『数列の和』という意味です。バクテリアの分裂のときは、前の個体が別れて残っていないわけですから、『級数』ではありませんし、子供や卵を産む動物や種や胞子で殖える植物も、親の個体はずっと生き続ける訳ではないので、中途半端な『数列の和』でしょう。第一『級数』と言う言葉も『数列』と同意で使われることもある曖昧な言葉で、死語に近い存在でしょう。
”Geometirical Progression” もしくは ” Geometric Series”  を直訳したと言う事は十分に解りますが、何故敢えてこの分かりにくい死語のような言葉を日本の翻訳者達は使いたがるのでしょうか?


 続いて、何故『指数関数』でなく、『幾何級数(=等比数列)』を使うのでしょうか?
 勿論『数列』は、不連続分布に、『指数関数』は連続分布に用います。
そして、人口やバクテリアの数は、整数を扱っているので、厳密には連続関数ではありません。しかし連続分布に近似出来るくらい十分に大きな数を扱っています。先に挙げたバクテリアの例では、考えやすくするために全個体そろえて、1ステップ(1時間)毎に2倍ずつ増えたので、等比数列的発想ですが、実際は、バクテリアの分裂だろうが、人間が子供や卵を産むときだろうが、「せーの」で一斉に分裂したり、子供を産んだりしているわけではありません。少しずつ殖えるのです。バクテリアの例なら、0.5時間なら√2倍ずつ殖えるのです。・・・だから、数列で扱うのは非常に抵抗があります。放射性元素の崩壊だってミクロに見れば数えられる粒子の崩壊ですが、量として扱います。等比数列でなんか扱いません。指数関数で扱います。 

 以上、本題には全く関係ありませんが、私は『指数関数』を用いるべきだと思います。『指数関数』でなく『幾何級数』を用いるのは、ちょっと抵抗を感じます。
勿論、等比数列が、幾何学的視覚に訴えるだろうことは容易に想像がつきます。

何か特別な理由があるのが分かる方がいれば、教えて下さい。


 『成長の限界』には、この幾何級数的成長の部分で、もう一つ私が納得出来ない部分があります。それは、
「ほとんどの人は、成長とは直線的なプロセスだと思っているので、あっという間に非常に大きな数になる幾何級数的な成長に惑わされてしまう」・・・という一節です。
まあ、確かにそう言う面は否定出来ませんが、それは人間社会が数を定義し使いはじめた時に等差数列的に使いはじめたからであって、人間の感覚は、寧ろ等比数列、指数関数に対応する頭になっていると思います。この事について次回書かせて戴きます。
 つまり、指数関数的増加と言うのは、私ならずとも良く用いる原理で「成長の限界」などでも扱っていますが、次回は、その逆関数である対数関数についての人間の感性や社会に関する私の洞察を書かせて戴きます。
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【2008/04/01 00:12】 | 雑談 トラックバック(0) |


サーシャ・ルビニコフ
『成長の限界』やマルサスの『人口の原理』などでも指数関数的増加関数がよく扱われますね。
人口学者のジョエル・E・コウエン氏は、非常に悲観的な人で、『人類の未来は、レミングの行進(ネズミ科のレミングは個体数が増えすぎると海などに身投げして個体数を調整するといわれています。ただ、科学的な根拠はありません。ただ離散しただけとも言われています)かもしくは、ノアの大洪水によって一掃されるかのどちらかであろうか?
有名な叙事詩に出てくるように、我々は誰一人として生き残ってはいけなかったのだ』といっています。

私も個人的な意見としてはコウエン氏に賛同ですね。アマゾンの熱帯雨林の保護を訴える人や密猟を阻止しようとする人達には厳しい意見かもしれませんが、違法伐採や密猟をしなければ生きていけない人達が現に存在しているのに、ただ取り締まるだけでは金持ち達の戯言です。
人身売買も然りで、モルドヴァやアルバニア、チェチェンでは公然と人身売買が行われていますが、彼らには仕事もなくEUの移民規制によって国外に行くことも難しい現在で、彼らはどうやって生きていけばいいのでしょうか?
イタリアで五共和国(イタリアの北部五州の独立を目指す過激派組織)に所属しているアルバニア人は、人身売買を行ったとして逮捕された事件がありました。
その時に彼が言った言葉は、『お前らがリビングで砂糖入りのミルクを飲んでるときに、祖国では何人もの人が飢えで死んでる。血塗られてない砂糖なんてないんだ』だそうです。

大抵の人は、白か黒の二元論で解決したがりますが、物事はそんなに単純ではないと思います。
話が逸れてしまいましたが、言いたかったことは『人間とは真に合理的な生き物ではないから、たとえ正しいことを言ってもそれを実行するほど賢明ではない』ということです。


性善説ではいられませんね。
雑草Z
    サーシャ・ルビニコフさん

確か2度目のコメントですね。有難う御座います。

細かい事ですみませんが、
>『成長の限界』やマルサスの『人口の原理』
は、本文後半に書いたように
「指数関数的増加」ではなく「幾何級数的増加」を使ってますね。何故「指数関数的増加」を使わないか不思議です。
ついでにもう一つ、マルサスの論理では、食料増産は、等差数列的(線形的)と言っていますが、根拠のない事ではないでしょうか?不合理に感じます。お分かりでしたら教えてください。

 人間の指数関数的増加を理解すれば、コウエン氏のように悲観的に成らざるを得ないでしょう。ただし

>我々は誰一人として生き残ってはいけなかった

とは思いませんが・・。

 後半は、書きたい内容は理解しますが、今回の記事とはあまり関係のないコメントですね?

>『人間とは真に合理的な生き物ではないから、たとえ正しいことを言ってもそれを実行するほど賢明ではない』

は、その通りだと思います・。正しい事をすぐに実行していたら、これほど矛盾に満ちた世の中にはならなかったでしょうね。だから、持続可能な社会を築く事に楽観的ではいられません。 


sio_sh
幾何級数は算術級数の対義語(?)として用いられ対数を幾何級数に取ると算術級数に等しいわけで、ようは線型と指数関数の違いなわけですが、ここらの同値性が理解できるだけの数学力がない人間にとってはたしかに紛らわしいだけかも。まあわざとわかりにくく書くのは数学の常套手段です、昔から。昔はそういう難しい本を理解できる人間だけがついてこれて専門家になればよかったが、学力低下と数学の需要(ITや経済方面など)の増加でわかりやすい本が増えてきたんでしょう。

指数関数的成長だって微分方程式で定義することもできるが、ワンステップおきに計算すると幾何級数になるわけで、ようは表現様式の違いにすぎない。たしかに成長などという具体例あてはめれば無理がでてくるかもしれないが純粋数学として定義するなら微分方程式も級数も変わらない。オイラーの公式も級数と微分方程式の証明があるじゃないか。

たしかに地球は有限ですが、こういう話でなぜ地球に引きこもることが前提として論じられているのかがわからない。タイプ1文明では埋蔵資源を使ってるだけなのでドレイク方程式の科学文明の持続期間というのはタイプ1文明とタイプ2文明の以降において重要となるがここで失敗すると絶滅や大幅後退の可能性もある。

タイプ2文明は惑星間文明だが、これもキャパシティが増えるだけで太陽系内の資源やエネルギーも有限なので、恒星間文明を築ける壁を突破できない場合同様の問題が生じるわけですが。

Re:
雑草Z
>幾何級数は算術級数の対義語(?)として用いられ

余談の部分へのコメントですね。
「幾何級数」同様、Arithmetic Progression も「算術級数」と訳すのは、レトロでレトリックな感じがすると言う事です。「等差数列」と言う単純で感覚的にも勝る日本語があるにもかかわらず、死語のような直訳に私は違和感があると言ったまでで、主題とは関係の無い些細な「余談」の部分です。

>指数関数的成長だって微分方程式で定義することもできるが、ワンステップおきに計算すると幾何級数になるわけで、ようは表現様式の違いにすぎない。

 表現は違えど、そのあたりの事は本文にも書いていますよ。それらを踏まえての感覚的な余談です。    


>こういう話でなぜ地球に引きこもることが前提として論じられているのかがわからない

地球の重力圏から脱出するのには非常に大きなエネルギーが必要です。地球外から資源を運び込むには、EPR的に逆効果で、地球の資源の枯渇及び環境負荷を増やすだけでしょう。人類が他の惑星に移住するなんてのは、更に困難な事でしょう。もしも他の惑星に移住可能だとしても、それは限られた数の人間でしょうし、それも当分実現の見込みはありませんから、当分の間はこの手の議論では地球を閉じた系と考える方が妥当でしょう。



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