2007-08-07 02:07
 私の住んでいる福島県会津地方に、会津高田という町がありました。この前の平成の大合併で3町村が合併して、現在は会津美里町の一部です。そこに、伊佐須美神社という田舎にしては結構大きな神社があります。
 その敷地内だと思うのですが、神社からは離れたはずれの部分に、ひょうたんプールという名の非常に魅力的で神秘的で面白い池がありました。・・そう、プールというよりは池と呼ぶべきでしょうけど・・池というよりも自然な感じで、沢と沼という感じでした。・・・・?沢と沼?・・その理由はこれからかきます。

 子供の頃、夏場に高田町の親戚の家に行く一番の楽しみは、このひょうたんプールに行く事でした。いとこの男の子数名で、水泳パンツ一丁のような格好で行くのですが、泳ぐわけではありません。泳ぐにはちと冷た過ぎる温度です。
 
 かつて、プールとしてひょうたん形に作られたという事です。水は土手を挟んだ反対側の大川(阿賀川の支流)から、地下を通して引かれ、ひょうたんの二つのこぶの小さい方の真ん中の部分から、沸き出すように作られたとの事です。沸き出し口は、直径2mほどのコンクリで囲んであって、きれいな砂利が敷き詰められていました。湧き出してくる水は川の水よりもずっと冷たく感じられました。はじめ、プールとして作られましたが、冷たすぎて泳げなくて放置されているうちに、自然豊かな神秘的な池に変わっていったらしいのです。


 このひょうたんの小さい方のこぶは、底が石場で、沢の生物・・・カジカ(魚のほう)、沢ガニなどが棲んでいました。水が湧き出ているきれいな沢のイメージそのものでした。 
 そして、真ん中のくびれから大きいこぶ方向に水が流れ出して、こぶの下の向こう端から、小川になって流れ出していました。その大きいこぶの方は、回りにうっそうと茂った木の陰の部分が多く、底が泥で、藻が沢山浮いていて、沼の雰囲気でした。そして、いとこが会津の方言でいうところの「トゲチョ」、巣作り魚で有名な「イトヨ」の生息地でした。

 つまり、この池は、沢と沼がくびれの部分でくっついたような不思議な池だったのです。川の水が湧き出す小さなこぶ部分は、底が砂利で、沢の生物が棲み、それがくびれ部分まで続き、そこで、大きなこぶの、底が泥の部分に水が流れ出しているさまは、沢の水が沼に流れ込む感じです。そして、大きなこぶの沼部には、巣作り魚のイトヨが、群れていました・・・。

 はじめのうちは、小さいこぶの方の沢ガニやカジカとりに夢中になっていましたが、だんだん大きなこぶの沼に入って「とげチョ」を網で追うようになりましたが、トゲチョは逃げてなかなか網に入らなかった記憶があります。

 このひょうたんプールを数年前懐かしくなって見にいきました。・・ちゃんと存在したのですが、残念なことに、かつての魅力は失われていました。・・・今日も見に行きましたが濁った水で水量が多く、くびれの部分に鳥小屋が作られ小さい方の楕円には、水鳥が放され泳いでいました。周りの木も切られたのか、間引きされ、池の周りは歩けるように小ぎれいに整備されていました。川の水質の変化もあったでしょうが、何故こういうことを平気でしてしまうのでしょうか?ただのよくある公園の池に成り下がっていました
カニもカジカもトゲチョもいなくなってしまったでしょう。

 ひょうたんプールは、本当の沢や沼ではなかったけれど、沢と沼がくっついていて、その限られた部分に(プールとしては大きなプールでしょう)神秘的で野趣溢れる自然を体現していました。現在もあの状態だったら、天然記念物に指定されてもいいくらいでしょう!
 それを見事に人工のつまらない池に改修されてしまいました。
 大規模工事だけでなく、全国の小さな沢や沼でこういう酷い改修がなされているのです。


 あの、かつての神秘的なひょうたんプールの素晴らしい自然を現在の子供たちにも体験させたいものです。 
070807_1317~0002.jpg

現在のひょうたん池…普通の池にしては趣があるほうでしょうが…かつてはずっと野趣溢れる神秘の池…

070807_1316~0001.jpg

手前が水が湧き出している小さいほうのこぶ

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【2007/08/07 02:07】 | 思い出 トラックバック(0) |

感性
天地 はるな
たぶん、雑草さんの日記を読まないで、写真を見たら、いいとこだなと思うかもしれません。
でも、ほんと、鳥小屋は、ちょっといだだけませんね。
私たちの感性が違うのでしょうか。
どこも過剰な装飾をしたり、木を伐ったりします。
なにを基準にそんなことをするのかと不思議です。



かつての野趣溢れる神秘的な姿を知らない人は
雑草Z
 素敵な池だと思うかもしれませんが、かつての姿を知っている私が現在の変わり果てた姿を見たときには、愕然ときました。

 水鳥の泳ぐ小さいほうのこぶの水は、かつては透き通って沢の生き物が棲んでいました。・・もうカジカも沢ガ二もいないでしょう。
 向こうの大きなこぶには、かつては藻が沢山浮いていて、トゲチョが巣を作って泳いでいました。・・そのとげちょも、もういないでしょう。

 >過剰な装飾をしたり、木を伐ったり

するのは、感性が狂っていますね。
それだけではなく、単に税金などをつかって、業者に儲けさせたい場合もあるのでしょう。
 そのままにしていれば素晴らしい自然を、いじくりまわして滅茶苦茶にするのが人間では、悲しすぎますね。 

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2007-07-05 23:05
昔、川で泳ぐのが危険だなんて、何故騒ぎ立てたのだろう。水泳のレースなら、プールの方がいいに違いないが、泳いで遊ぶなら、プールより海が面白い。そして、海より川の方が断然面白い。
 学校にプールが完備されはじめたのは、いつ頃だろう?若しかしたら、これもゼネコンなどのプロパガンダだったかも知れない。そりゃあ、プールで泳ぐよりは、川で泳ぐ方が危険だろうけれど、川で泳ぐ事を学校教育でなされていたら、川も今ほど汚染されず、魚も沢山いて、今でもいたるところで泳げるくらいにきれいでメダカもそこここで見られたかも知れない。 
     
 私が岩手県に転校した時、小学校にプールはなく、小学校で川に連れて行かれて泳いだのを覚えている。子供心にもプールでなく川で泳ぐのは、凄いことだと思った。まだ、しっかり泳げる前だったから、流れがあって泳ぎにくい感じはしたけれど、頗る面白かった。
 小学校高学年になって、プールを作ろうと運動がおこって、寄付金まで集めてプールが出来上がった。普通の都会の学校と同じくなって、それはそれで面白かった。川で泳いだことはそれほど恋しいとは思わなかった。・・・その頃は、プールに水カマキリがよく入ってきたのがやけに印象深い。・・・急な流れや深いところがあって危険な事と、農薬などで汚染されていることで、川で泳ぐのは、都会並に禁止された。・・・・そういう流れに乗らない郡上八幡とかは、 素晴らしい!・


 私も、川で泳がなくなった。・・・流れは魅力だったが、農薬や化学薬品で汚染された川では泳ぎたくないと思った・・・。

 私が育った岩手県一関市の萩荘(はぎしょう)地区には、北上川の支流の磐井川が流れていた。小さい頃は福島県の砂や砂利の下流のような川を見て育った私にとって、岩場が多く、野趣溢れる磐井川は素晴らしいところであった。父も磐井川が好きで、よく父と自転車で出かけた。その他友達と行ったり、一人で行ったりしていた。化石が取れる場所があり、化石取りにはかなり嵌った・・・磐井川のこの化石がとれた場所を釜ヶ渕と云う。
 釜ヶ渕には遊泳禁止の看板が立ててあった。
丁度一番危なそうな場所だ。岩場が、川の下流に向かって何メートルも長く張り出していて、その下流側が恐ろしく深い。一見底なしのような深さだ。それだけではない。その川に張り出した岩場の下に穴が入り込んでいる。・・・かつて溺れ死んだ少年が、その岩場の下から出てきたなんて話も残っていた・・・。


 非常に深い渕である。近くの高専(工業高等専門学校)から、実験などの汚い廃液が流れ込んでいた。農薬だって無節操に使われていた時代だと思う。
 高校生以上になって、釜ヶ渕で泳ぎたいと思った。禁止されていたから逆らってみたいのではなく、本当に魅力的な冒険であった。恐ろしいと同時に非常に面白そうな場所であった。はじめは一人で、後に高校時代の友達二人を加えて3人で泳いだ。はじめは、突き出た岩場と下流の岸の間を横断した。だんだん慣れて来たら、底まで潜る為に漬け物石くらいの石を持って、突き出た岩場から深い渕に飛び込んだ。耳がキーンと鳴った。漬け物石から手を離すと水面に飛び出た。スリルと恐怖が同居して面白かった。意外と浅く、すぐ底まで着けた。・・・深さは3〜5mくらいか?突き出た岩場の下の穴にも入ってみたが、流石にちょっと入っただけで引き返した。


×××××××××××××××××××××××××××××× 
 ある日、数人の小学生も浅瀬で水遊びや魚救いをやっていた。渕の深みで泳いでいたのは我々3人だけだったと思う。小学生が急に騒ぎはじめた。足の立たない深みで水から頭を出してみると、川岸の薮の中から、緑の小人みたいなものが飛び出して来て、我々が泳いでいる渕に飛び込んだ。何だぁ〜あって、あっけにとられていると、飛び込んだ緑の生物が私からほんの数メートルの所から頭を水の上に出した。赤ちゃんぐらいの顔の大きさで、逆三角形の形で顔中緑色。私と目が合うと、おじぎのように頭をこっちに向けて垂れた。・・・こちらに向けた頭の上は、ゼリーのような質感であった。・・・これが、河童の皿だろうか?
 「河童だ!河童だ!」水辺の小学生たちが騒ぎはじめた。・・・その生物・・河童?は水に深く潜り込むと、突き出た岩場の下に入り込んだ穴の下に消えて行った。我々3人は、恐ろしくなり急いで水からあがった。それから小学生たちと岸の上からその「河童」を探したが、二度と姿を現さなかった。・・・  
 水の上で小学生の最年長らしき子供は、
「ここで溺れ死んだ人は、みんな河童に足を引きずり込まれて、尻子玉(しりこだま)を抜かれて死んだ」
とか、「岩場の下の穴はずっと続いていて、薮の中に出口がある」
とか、おじいちゃんから聞いた話とか言って、盛んにしゃべっていた・・・・。日が暮れたので、興奮冷めや
らぬまま、おのおの土産話を持って、帰路についた・・・・
××××××××××××××××××××××××××××××


 この話をすると、何故かみんな疑いもなく信じた。特に釜ヶ渕の神秘的な景色を知っている者は、
 「あそこならさもありなん」
て思ったからではないであろうか?
 私は、かなり遊び心はあって、イタズラ好きだが、虚言僻はない。
でも当時この話を聞かせた奴はみんな信じたので、いい気になって、いくつかの場面で何人かの人間にこの話をした。
 去年、家族と丁度近くを通りかかったとき、懐かしくなって、家族にもその風景を見せたいと釜が渕に行ってみた。釜ヶ渕のある河原に下りようと思ったら、降り口が閉鎖されていた。別な降り口もなくなっていた。降り口を探したが見つからず、釜ヶ渕にたどり着けないどころか、上から見ることさえ出来なかった。
 日暮れで時間もなかったので、仕方なく帰った。
色々開発が進んで、地理が変わっていた。不法投棄でもされていたら残念だ。
 どうなったか是非とも近いうちに確かめたい。
こう云う魑魅魍魎とした話って、信じないけど面白い!

 ちなみに、このカッパの話を聞いて、初めて嘘だと発言した者は・・・話を聞いている途中に彼は突然思いあたる事があって、私に次のように言い放った。

 「その時一緒に泳いでいた高校の友達って俺達の事か・・あんときのことだべ?・・じゃあ、作り話か!?(笑)しょうもねえ!!!」
 
 
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【2007/07/05 23:05】 | 思い出 トラックバック(0) |

雑草Zさん、こんばんは。
TF(霧島)
いつもどうもです。

カテゴリー「思いで」の中にありましたよ。(笑)

そうですか、萩荘は、宮城県に近いほうなんですね。。。
変わっていたのは、厳美渓の手前あたりですね。
バイパスみたいな立派の道路ができていて、
鉄筋コンクリート造りの大きな旅館、かんぽの宿
なんかができていましたね。

こちらこそ、宜しくお願いします。それでは。



萩荘
雑草Z
    TF(霧島)さん

 
 コメント有難う御座います。カテゴリー「思いで」の古い記事まで読んで戴いて恐縮です。

「萩荘」と言う言葉に吃驚!反応してしまいました。郷愁を感じる地名です。

萩荘は、一関市の南西部です。丁度厳美地区と東西に続く境界線を接しその南部に在ります。
 私が住んでいた頃は、県道だった457号線が通り、一関市内から出て宮城県の岩ヶ崎へ抜けます。分岐して栗駒ダムの方へ行く道です。
 市内から厳美渓への手前だったら、赤萩(あこうぎ)地区ではないでしょうか?

町も発展しないで昔のままであって欲しいものです。
 ・・・なんかローカルな懐かしい響きのお話です。

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2007-06-27 23:11
 幼い頃、いとも簡単にアゲハ蝶を素手で捕まえられました。

 幼い頃、庭にアゲハ蝶がよくやって来ました。花にとまったところにそっと近づいて、簡単に捕まえられました。いつも素手で捕まえては、母に自慢に見せていたものです。普通のアゲハキアゲハが多く庭を訪れ、捕まえていました。クロアゲハを捕まえたときはもっと嬉しく、カラスアゲハはさらに嬉しいものがありましたが、カラスアゲハは普通もう少し山に行かなければいませんでした。捕ったアゲハは、お菓子かなんかの紙箱に、箸で穴をあけて脱脂綿や綿に砂糖水などをつけて飼ったりしましたが、中が見えないし、蝶も、箸であけたいくつかの穴から光が差し込む以外は暗くて、嫌だったでしょう。あばれると羽がボロボロになって可愛そうでした。死んでしまうのが嫌で、1日くらい飼って逃がしていたような記憶があります。虫かごは小さすぎてあまり使いませんでした。
 
 その頃は、虫を飼う大きな小屋でもあればいいと思ったものです。でも、今思うと、囲って飼うという発想はよくありません。捕まえる必要もないでしょう。生態系はあくまで外から観察して楽しめばいいのではないでしょうか?


 昆虫採集も小学校の宿題かなんかで夏休みとかにやりましたが、注射で殺して針に差すのは好きではなく、死んでからの昆虫を整理して出していました。防腐剤を注射して殺して採集するのは反対です。無闇な殺生は良くないでしょう。

 さて、幼い頃、素手でアゲハ蝶をいとも簡単に捕まえていた私が、成人してから、子供の頃を思い出してアゲハ蝶を素手で捕まえようとした事があります。
アゲハが止まっている花に近づいたら次の花に逃げられました。またそっと追いかけたつもりですが、さらに遠くに飛んでいってしまいました。幼い頃の記憶と違い、結構難しいのです。不思議でした。子供の頃何故あんな簡単に素手でアゲハ蝶を捕まえられたのでしょうか?子供の頃は、人間の気配があまりなかったのでしょうか?


 私の通っていた小学校の近くにカラタチの木の生け垣があり、アゲハ蝶の幼虫が沢山いました。小さい幼虫は黒かった記憶があります。ある程度大きくなると、脱皮して緑色の芋虫になります。ちょっかいを出すと赤い角を出して悪臭を出します。悪臭といっても、ちょっと甘ったるいような匂いの記憶がありますが、・・・その匂いも忘れてしまうくらいアゲハの幼虫をしばらく見ていません。

 そこからアゲハの幼虫を捕ってきて、家で何度か玄関で飼いました。さなぎになって、暫くして、朝、脱皮して、アゲハ蝶がいた時には感動致しました。脱皮したばかりの蝶のなんときれいなこと!暫くして、玄関を開けると大空に飛んで行きました。      
 この感動をもう一度!とまたアゲハの幼虫を飼って、さなぎになり、暫くすると、今度は脱皮せずに、さなぎの体に真ん丸い穴が開いていました。そして、近くに黒いハチのような昆虫がいました。寄生していたハチが出て来たのです。
 なんとも言えぬ虚脱感がありましたが、そのハチも外へ逃がしたような記憶があります。

 蝶に限らず、動物でも植物でも生き物を育てる時、失敗してもそこから軌道修正するしかありません。コンピュータゲームのようにリセットは出来ません。
 人間、長い間生きて色々後悔があったりすると、リセットしてやり直したいと思うものです。でも。そんな妄想があっても、現在から修正して行かなければなりません。ごく当たり前のことです。
 生き物を飼うことをそれほど奨励は致しませんが、生き物の飼育は、、昔流行ったタマゴッチのように、人間がプログラムしたコンピュータゲームのようなシンプルなものではなく、無限のバリエーションのある、リセットの効かないものです。 
 
 子供の頃、色んな虫が好きでしたが、アゲハ蝶もそのひとつでした。
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【2007/06/27 23:11】 | 思い出 トラックバック(0) |

我が家の屋上では
cantama
度々お邪魔しますっ。
屋上やベランダの柑橘類の木にはアゲハチョウの幼虫がいます。時々すず(猫)に親蝶がやられていますがクロチョウみたいです。
我が家は東京の下町ですが近くに古い庭園もあるせいか結構いろいろやってきますよ、母親には害虫として駆除されてしまうので私が管理している屋上だけは聖域です。
と言っても鳥に食べられるのも自然ですからそのままです。

都会の屋上やベランダの木にアゲハが卵を産むって素敵ですね
雑草Z
 同日に2度のご訪問有難う御座います。

東京の下町の家の屋上やベランダの木に、アゲハチョウがやって来て卵を産むなんて素敵ですね。
 東京って、場所によっては結構緑が多いですよね。
これで、川の生態系もある程度あれば、ちょっとした里山の代わりになりますね。
 河畔林はないにしても、魚の住んでいる川や沼はありますか?ゲンゴロウは東京では絶滅したそうですね。

PS 
 私の住んでいるのは雪国ですから、家に屋上はありません。急斜面の屋根です(笑) 


nao
蝶々の幼虫ってみかんなんかの山椒系の木に多いんですよね、確か。

山椒もミカン科なんですね。
雑草Z
 アゲハの幼虫って、カラタチなどの柑橘類の葉を食べますが、何故か山椒の木にもついているので、不思議に思いネットで調べたら、山椒はミカン科と載っていました。なるほど・・匂いはちょっと違いますが・・・
 子供の頃、虫や動物には詳しかったのですが、植物は今でもあまり知りません。
新しい発見がありますね。
 ちなみに、モンシロチョウの幼虫は、キャベツに沢山ついていた記憶があります。

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2007-03-03 17:09
地元で作ったものを地元で消費する地産地消。主に農産物などの食料品に使われる言葉ですが、その他広くいろんな商品にも使われています。
 最近地産地消の意識が高まり、ここ会津の地でも、地産地消の学校給食を行っている村もあるとの事です。でもそれって、ある程度昔は、普通の事だったでしょう。
 特にここ会津の地では、今でも食糧自給率が100%を超えますから、地産地消した後、残りは他で消費という形に出来るでしょう。

 地産地消自給自足と表裏一体の関係にあります。
 究極の地産地消、自給自足は、食べる時に家の周りの畑から野菜や芋を採って来て食べるという形態でしょう。・・・そこまでではなくとも、農作物を収穫してから食べる人のもとに渡るまで、調理の前の段階まで、人力以外の石油などのエネルギーを使わないのが理想です。
(勿論、生産の段階でのエネルギー投入が問題ですが、それは別な機会に・・)
 私が子供の頃、夏場には農家の方々(特に女の方々)が朝リヤカーを引いて、各家をまわって野菜や果物を売って歩いたものです。その日の朝に収穫したものをそのままリヤカーに積んで売りに来た訳です。朝早く「おはよーございます」と次々に来るので、母が「小さい子供(私)が起きるから静かにしっせ!」
などと玄関で言っていた事を懐かしく思い出します。勿論、特に声がうるさいなんて感じた記憶はありません。
 八百屋さんよりずっと安くて新鮮な野菜や果物でしたが、日が高くなってくると・・8時頃でしょうか?もっと後でしょうか?その頃になると、リヤカーに余った野菜をかなり安く投げ売りしていたものです・・余った・スイカにトマトとキュウリと茄子と全部まとめていくらとか・・懐かしいですね。

 これこそ、収穫してから食べる人のもとに渡るまで、人力以外のエネルギーを使っていません。理想の形だと思います。
 田舎のこういう形態、今だからこそ、戻れればいいと思います。・・こう言う昔の日常生活を今はスローライフなどと言って、贅沢な感じさえある訳です。
 その為には生産者だけでなく消費者の意識も大切でしょう。
 
 今回は、社会形態の考察で書くつもりが、思い出になってしまったようです(笑)
 こういう考察をしているとつくづく、(日本の)大都会は駄目だと感じます。自給自足の地産地消は無理だし、それだけでなく、回りの地域に多くの廃棄物
を放出しています。このような都市の在り方についても、近々書きたいと考えています。
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【2007/03/03 17:09】 | 思い出 トラックバック(0) |

こんばんは 
kumacom
私も幼い頃は道内の田舎にいたので、
祖父が作った沢山の野菜をいつも食べていました。
形が悪くても今の売られている野菜より、
味が濃かったように思います。
今年はベランダで何か作ってみようかと思います。

日本のスーパーでも「フードマイル」表示を始めたら良いですよね!今度又、ポスフールに意見してきます♪

味がいいだけでなく、健康にも良かったでしょうね。
雑草Z
 おじいさまが作ってくれた野菜は農薬もあまり使っていなかっただろうし、栄養もたっぷりだったでしょう。形のいい野菜を求める今のスーパーや消費者もへんですね。
 フードマイレージと言うか、
「○○産、ここから□□km」
くらいがいいと思います。でも、「○○産」で産地ブランドしか意識しない消費者ばかりでしょうね。
「こんな遠くから持ってきてるんだ、勿体無い!」
という意識になるにはまだまだですね。

だいぶ前の記事へのコメントですが・・
たびけん
こんにちは。最近知った話を少し・・。

私の地元は人口が1万に満たない、小さな田舎町です。

そんな町でも、小中学校は、わずかながらありまして、お昼には給食が出ます。
人口が少ないといっても、給食で使われる野菜などは結構な量です。
そして、その野菜はもちろん地元産のものだろう、と思っていました。
ところが、現場で働いている人にお話を伺ったところ、実は、冷凍野菜を使っているとのことでした。
地元に大量生産しているところがなく、小売店からの仕入れだと、お金が高くつくからです。
だから、使われている野菜(冷凍野菜)は、地元のものどころか、遠く離れた、静岡産だったりするのです。
さらに、あくまで『地元』にこだわるために、大きな店があっても、地元の商店組合に入っていないために、仕入れることができないそうです。

では、なぜ「冷凍野菜」は許されるのでしょうか?

残念ながら、その方は、そこまでご存知ではありませんでした。

大都会どころか、地方の田舎ですら、地産地消ができていないのです。
これからきちんと、流通システムを見直していかなければいけないと強く思います。


そういう時こそ農協の出番の筈が・・・
雑草Z
 >地元に大量生産しているところがなく

って凄くいい事だと思います。大規模農業なんて農薬付けの場合が多いですから・・・
だから、そういう時こそ農協、JAが音頭を取って小さな農家から野菜を集めて地元の小中学校の給食に食材を提供すればいいと思います。
 JAも農薬の殺虫剤や除草剤や化学肥料ばかり売ってないで、そう言った事を積極的にやるべきでしょう。
 丁度、中国製のとんでも野菜なども問題になっている今こそ、JAは、全国展開などやらずに、地域密着型の有機農法の地産地消を進めれば、再評価されるのではないでしょうか? 

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2006-10-20 19:04
 「自転車対自動車」とくれば、
今までの私の話の流れからすると、自転車と自動車のエネルギー効率や、環境負荷の話を想定されるでしょう?でも、その話は大体したし、自転車の圧勝に疑問の余地はない。そうではなくて、
 
 今回は単純に自転車と自動車のレースの話。
 ただ、しっかりしたレース会場でやるのではなく、暴走族のように、一般道での非公式レース。自転車の運転手は学生時代の私。自動車の運転手は不特定多数。(笑)  

 ルールは簡単!バイト先の塾に自転車で通うとき、同じ方向へ進む不特定多数の自動車と勝負する。1台の自動車を抜くと+1、抜かれると−1とカウン ト。これで、トータル得点が、+だったら自転車(私)の勝ち。−だったら負け。
 距離は、行く教室によっても違うが、5km〜20kmくらいだったと思う。コースは、片側1車線の地方道など。片側2車線以上の国道では、車をカウントしにくいし、勝てないかも知れない(笑)と、云うより、自転車の走り安い近道を選ぶと自然に地方道になった。
時間帯は夕方のラッシュアワーが多かった。これも自転車には有利に働いた。(笑)
 帰りの夜は、21時過ぎ、0時を過ぎる事もあった。自動車もあまり通らないしバイト仲間と飯食いに行ったりして、勝負はしなかった。しても負けていただろう。(笑)

 面白い試合であった。少しずつ自動車に抜かれて行って、マイナスポイントが、積み上げられて行くが、信号待ちのところで、一挙にプラスポイントを稼ぐ。 
  -8 , -7 , -6 , -5 , -4 , -3 , -2 , -1 , 0 , +1 , +2 , +3 , +4 , +5 ・・・・ 
と、一挙に逆転だ!(笑)

自転車だったら、多少の信号無視も大丈夫(笑)
結果は・・・、いつも自転車(私)の圧勝だったと思う。よく覚えてないが、今日は+50が目標だとか、そんなレベルだったと思う。途中でカウントが分からなくなってリセットしたり・・なんか懐かしい・・・

  私は、マイカー通勤と云うものに反対だが、現実の問題として、それを厳しく実施するまでは、色々諸条件の整備が必要だ。
 しかし学生は自動車免許禁止にすぐに出来る。大学生までは簡単に出来るはずだ。高校生までは実施しているのだから。排ガス問題等にもエネルギー問題にも大変有効だろう。今すぐにでも実施するべきだ。でも、こう云う事は政府はやらんだろうな。
自動車会社も反対するだろうし、アメリカなんか高校生からOKなんだから・・と、くるだろう。
最高の環境破壊国の真似することないんだけどね。
 学生マイカー禁止       大田総理どうですか?
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【2006/10/20 19:04】 | 思い出 トラックバック(0) |

こんばんは
NAOママ
自転車・・・何だかとても懐かしい響きがします。すっかり乗らなくなって、どのくらい経つでしょうか。私も、社会人になるまで車を運転したことがありませんでした。あの頃は、充分事足りていたのです。雨の日も風の日も・・・
実は私も、自転車通勤を試みたことがあるんです。当時、職場からアパートまでは約2.5km。実家から自転車を持ってこよう!!と思い立ち、約27kmの道のりをひたすら漕ぎました。体力にはそこそこ自信のあった私ですが、20半ばを過ぎた身体は、だいぶ錆び付き、相当燃費の悪いものになっていたようです。きつかったぁ〜。
今の私は・・・考えただけでもゾッとします。雑草さんの言う通り私は、最高に効率のいいエネルギーをその都度使いきることなく、脂肪という名の、燃やすには更に困難なものに形を変え、なんとひたすら蓄えていたのです。目から鱗!私のBMI指数が環境問題と繋がっていたなんて。まさに今、考えるときなのだと思っています。

先ずは近場から
雑草
 続けてのご訪問有難うございます。NAOママ さまからのコメントは、書き続ける励みになります。
 買い物だとか、近場に行くときは、歩くか自転車。これって習慣です。町の中だったら、私のようにレースしなくても(笑)自転車のほうが早いだけでなく駐車場を見つける必要もなく便利な筈です。
 買い物手さげをもって自転車でお買い物。こういう風景っていいですね。都市部のほうがまだ沢山見かけます。
 お子さんがある程度大きくなったら、一緒にサイクリングも楽しいですよ。

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2006-09-27 00:40
 小学2年の時、岩手県一関市の萩荘と云う、自然に恵まれた田舎に引っ越した。
転校してすぐ、当日か翌日あたり、新しいクラスの友達に小学校のすぐ裏の川に下る小径を案内してもらった。その小径で、水がちょろちょろ流れているところに貝殻みたいなものを見つけた。立ち止まって、その辺りの石を裏返してみたら、沢がにがいた。自分が初めて見つけたかにの住処だ。というより、沢がにそのものを初めて見たと思う。!貝殻かと思ったのはかにの脱皮した殻だったのだ。
 その場所は、田んぼが土手の上にあって、一度田んぼの水が土に染み込んで、すぐにまた土手の下から湧き出ている水だった。それでも飲めそうなきれいな水であった。実際飲んだと思う。(土のろ過の威力は凄いものだ!)その、沢と呼ぶには、本当に幅が狭くて水もチョロチョロで、下の川までも十数mくらいの範囲がかにの住んでいる場所だった。
 後からわかった事だが、沢ガニなんてそれほど珍しくない土地であったが、何せ、小学校のすぐ近く。休み時間にでも捕りに行ける。その時から、転校した自分のクラス2年A組の男子の間で、毎日毎日カニ取りが始まった。朝、休み時間、放課後・・私が朝小学校についた頃には、もう既に数匹捕まえている子供もいた。
 
 しかし、ほんの短い沢、子供たちは無邪気にも、カニを求めてその小さな沢を掘り返し、いつの間にか、かにはいなくなってしまった。どの位の期間かは覚えていない。二、三日か、一週間か一月か、確実なのは、その年というか、その春にかにはいなくなってしまった。私が見つけたばかりに絶滅してしまった。思い出す度に心が痛んだ・・・
 その後、何年かして、小さなかにをそこで見つけて安心した記憶がある。ホントに嬉しかった。しかし、夢かうつつかわからない。都合のいい記憶違いかも知れない。本当だったら凄く嬉しい・・。 

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【2006/09/27 00:40】 | 思い出 トラックバック(0) |
2006-09-07 23:47
ベルリンの壁の崩壊は、その1月前くらいまで予想した人は皆無に等しい。20世紀中には無理だろうと思っていた人がほとんどであろう・・・。この事で、将来の予測なんてたとえ専門家でもあてにならない、明日、どんなどんでん返しがあるか分からないと言う事、何事も諦める必要がない事を悟った。

 そのベルリンの壁が崩壊したすぐ後、1990年の頃、ドイツを一人旅した。ベルリンの壁崩壊に希望かなにかを見いだして浮かれていたのかも知れない。
 その頃一応高校の教師になっていたが、モラトリアムしていた私は、ベルリンの壁がまだ撤去されずに残っている間に行くべきだと漠然と感じていた。しかし他にも目的はいろいろあった。当時、量子力学をドイツに渡って研究していた友達が、物理の難問の1つ「三体問題」を解いて発表したと聞いていたので会いたいものだと旅の直前に手紙を出しておいた。それから当時私は、ドイツのへヴィーなロック、”ジャーマン メタル” にハマっていた。毎晩そんな系統のクラブに通おうと思っていた。これが一番の目的だったかも知れない。
 まあ何かと色々な理由をつけて当時マイブームだったドイツへ行った。
 ドイツに渡る前に数日寄ったイギリスのロンドンは、着いたその日にぼったくりバーに入って散々だった。いい思い出も結構あったと思うがそれほど印象にない。逆に言えばロンドンのヒースロー空港(私の好きな Jimmy Page の父が働いていた場所)から渡ったドイツの思い出は鮮明だ。
 始めに到着したジュッセルドルフからして気に入ってしまった。道に迷っているとみんな親切に声を掛けてくれた。背の高い、聡明な瞳のドイツ女性がにっこり笑って、お登りさんのような私に、「何処へ行きたいのですか?」。ベルリン行きの列車の切符売り場まで連れて行ってくれて、時刻表まで調べてくれた。
 電車の発車時間まで立ち寄ったパブでは、樽からコップに注いでくれるオルトビールが素晴らしく美味しく、後にも先にもこんなにビールが美味いと感じた事はない。しかも、そこにいた地元の客が人なつっこく奢ってくれた。列車の切符を買ってなかったら、明け方までそのパブで過ごしたいと感じた。食べ物もロンドンのようにまずくなく、みな頗る美味い。
そんなこんなで幸先良い感じで、ジュッセルドルフに後ろ髪を引かれながらベルリンに向かう夜行列車に乗ったのは、ベルリンに早く行きたいという気持ちより寧ろ、単に一晩の宿賃を節約する為だったのかも知れない。夜中に、手紙を出しておいた彼の住むボヒェムとかいう町に着いたが、私は降りずに直接ベルリンに行くほうを選んだ・・。

 ちゃんと眠ったのかどうかは忘れたが、ガラガラだった客車は、明け方過ぎて客が増えていた。私のボックスに、中年のご夫婦と、大学院生かの若者が同席した。大学で働いているとかいうご主人と環境問題の話をし、私はゴミは100パーセント細かく分別回収すべきだ等と話していた。ご主人も同意していた。そして、もう一人同席していた大学院生だったかの学生にその事について意見を求めたら、それまで黙ってシニカルな表情で話に混ざらなかった彼は「それでは駄目だ」と言った。
 分別回収が駄目ってどう言う事?彼に、「ならどうすべきか」聞いた時に彼が発した言葉が
”produce less” 「生産を減らせ!」 
 後になって考えると、”produce” と”less”が繋がっていて”produceless”「非生産」かも知れない。
 「それでも、確かにエネルギーは使うがリサイクルも必要でないか?」などと(ムキになって?)言ったら、彼は、首を振りながら、
 「大学で環境の研究をしてきた。そこで出した結論は、環境問題は救いようがない方向に向かっている。リサイクルなんて甘い方法では解決にならない。この問題を解決出来る唯一の方法は、Produce less であるが、今の世界の経済システムではそれは、実現不可能で、それ故現状は悲惨極まりなく、私はPessimistic だ!」
 と、答えた。
 その後の議論の展開は覚えていない。そこで話は途絶えたのかも知れない・・。
その後、ベルリンに着いて、まだ完全に取り壊されずに残っていた壁の所へ行った。壁を削っていた人から壁のかけらを買った。ハイな気分の日が続き、毎日昼頃宿泊先を出て夜中まで出歩いた。ベルリンで年越しをしたような記憶がある。何日か楽しんでベルリンからハンブルクへ行って、ここでも毎晩出歩いて夜遊びした。と言うか、ほろ酔いでほっつき歩いた。クラブに通って、古っぽいブルーズやらジャーマン・メタルを楽しんだ。引き寄せられるように初めて出遭った究極のオドロオドロしいデスメタルらしきものが鳴っている壊れた人形が飾ってあるお化け屋敷のような真っ暗で歩くのも手探りのようなパブが妙に記憶に残っている。きっとドイツに行って望んだような事は色々出来て、ロンドンよりずっと充実して良かった筈だ。ドイツはとても気に入った・・・。

 しかし後になって最もしっかり覚えていた出来事は、ベルリンへ向かう列車の中で、あの学生の発した ”Produce less”という言葉だ。当初は少し否定したかった部分もあったかも知れない。しかし、すぐに彼の洞察は的確だと確信するに至った。この時以降私の環境問題に関するスタンスは”produce less”「生産を減らせ!」または”produceless”「非生産」である。
 今の日本の様にゴミ減量のメインの解決法がリサイクルだと考えて、リサイクルの効力を信じていたら私は言うであろう。リサイクルよりも”produce less”「生産を減らせ!」

 あの彼は今だに環境問題に絶望しているのだろうか?否、きっとよりシビアーな循環型社会の実現目指して活動している様に思う。彼ともう一度話をしたい。今の私とどっちが地球の現状に、よりペシミスティックであろう?そして彼はなにか新たな方策を考えたであろうか?彼に遭っても顔は記憶にないから判らないだろうけれど・・・。
 
 確かにゴミ問題、環境問題の根本的な解決策は ”produce less”若しくは”produceless”であり、
それが最高の対策に違いない。
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【2006/09/07 23:47】 | 思い出 トラックバック(0) |
2006-08-31 23:43
子供の頃、物を捨てるのが嫌いだった。 強迫神経症的に、がらくたでも何でも取って置いた。片付かなくてどうしても捨てろと親に言われて捨てられた時、また資源として役に立つのだと自分を納得させた。当時分別回収なんてなかったが、きっと集めてから分別するのだと子供心に言い聞かせた。・・・だから、また資源に戻さずに、ただ燃やしたり埋めたりする事を知ったとき、唖然とした。私が行政に不満をもった初めての瞬間かも知れない。当時、くず屋さんと言うのもあったし、ぶたのえさとして残飯を集めてくれる人もいた。だから、まさか行政がそんな子供が普通に考えても大変な結果を生み出す事をやっているなんて思わなかった。
 当時、環境問題なんて言葉もなかったけれど、ちゃんと回収業者がいたのだ。それなのに、その回収業者のないゴミは、再利用どころか燃やしたり埋めたり・・何故か?それは高度経済成長時代と呼ぶところの『経済効率』。なんてこった!

中学に入って紙のリサイクルを中学校で試みた。回収してまとめた。先生に頼んで業者に連絡してもらったら、業者が引き取ってくれなかった。否、一部は引き取って貰ったのかも知れない。新聞紙だとか、均質の紙でないとダメと言われた。自分もそこでやめてしまった。そのゴミは私が卒業した後にゴミとして捨てられたのだろうか?当時は許されていた学校の焼却炉で燃やされたのだろうか?誰かが再挑戦してしっかり回収業者に引きとって貰っただろうか?途中でやめた自分の無責任さに、時々思い出して心が痛んだ。
  
 
 江戸時代はゴミで埋め立てなんかせずに、それこそそれぞれのゴミの回収業があったそうだ。今で言うところの分別回収があったのだ。それが普通なのだけれど、今から見れば、今よりしっかり進んでいたのだ。リユース、リサイクル率100%。明治以降も概ねそれは続いて、戦前までは、ゴミ問題は顕著化していなかったであろう。(明治から昭和初期までのゴミの分別回収について知っている人に教えて欲しい。)

 NA (Native American) もリサイクル100%だったそうだ。そう、我々黄色人種はどこでも自然と共存共栄する思想に満ち、白人社会の様に自然を開拓すべき対象とは見ていなかった筈だ。それがどうだろう!今は白人社会の方がリサイクルリユースに積極的で,(アメリカは最悪の部類)日本なんか、今だに形式だけだったり全く徹底していない。白人社会は確かに産業革命が早くて環境破壊が早く起こったからと言うのも一つの理由だけれど、白人から入った文化を鵜呑みにして、今だに悪い面を直さない。日本人も悲しい。そして、こんな日本を嫌っている筈の中国も韓国も、経済優先の点では悪い日本を見本にしている。
 黄色人種は素直で従順で疑う心が少ないのだろうか?植民地化されたから仕方がないのだろうか?植民地が終わった今でさえこんなに酷いなんて、征服されてる間に我々の思考のDNAが麻痺してしまったのだろうか?白人社会でもアメリカはいまだにひどいけれど。

 ゴミの事だけでなく、次第に悪くなる環境問題で、古き良き時代を懐かしむペーソスだけの世の中はフィクションであって欲しい。そうじゃなければ悲し過ぎてやるせない。そんな古き良き時代が来る様にオプティミズムを持って諦めないで取り組まないと・・中学時代の後悔を繰り返すのはまっぴらゴメン。
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【2006/08/31 23:43】 | 思い出 トラックバック(0) |

私も小さい頃
社枯
物を捨てるのが嫌いでした。割れてしまったペンケースやアメ・ガムの包み紙まで捨てられずに取って置いていました。
親に怒られて片っ端から捨てられましたが…。

今の時代でリサイクル率100%が実現できたらどんなに良いか…。
日本はこれまでで、経済的な面は豊かになったのかもしれませんが、そんなことよりもっと大切な事がどんどん失われていきますね…。

物を捨てられない心。
雑草Z
 物を捨てるのが嫌いというのは、現在の日本では、物の整理がつかなくて大変みたいですが、そんな使い捨ての時代が続く筈がありません。本来、物を大切に使う事はいい心掛けに決まってます。 
>割れてしまったペンケースやアメ・ガムの包み紙まで捨てられずに
 と云うところがとてもいいですね。
そう云う部分、非常に共感出来ます。同志って感じが致します(笑)。私は、勿体無い精神と共に、強迫観念もあったのですが、この部分から想像するに、社枯さんも結構強迫観念あったみたいですね?(笑)
 「使い捨て出来るくらい物が溢れて経済面が豊かになった」なんて事は、素晴らしいどころか、心が貧しすぎますね。
 精神的な事ばかりでなく、今のゴミの大量放出は、大切な資源をどんどん失い、環境汚染が進み、生物が棲めない環境になって生態系破壊、人間社会崩壊をもたらしますね。
 ただ、リサイクルはエネルギーを使うので、全てのものをリサイクルするのがいい訳ではなく、リサイクル率100%には、条件があります。そこのところは、
【リサイクル再考】シリーズ(2007年2/13〜2/21)などを見て下さいね。

 <雑草の言葉>を始めた初期の頃(字の大きさも一定で、色も付けていません・・笑)の、誰もコメントくれなかった頃の記事にコメント戴き、非常に嬉しく思います。この頃は、Yahoo!ブログにいて、訪問者も非常に少なかった頃の記事です。(移転しました)

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