雑草の言葉

スポ少

2016/03/17
スポーツ・娯楽 12
「スポーツ少年団」って、いつ頃から日本に現れたのでしょう?・・・私が子供の頃の田舎には無かったなあ・・・と考えていたらそれは記憶違いで、実は私よりも年上の従兄弟が小学生の頃から剣道の団体に所属していました。正式名称が「スポーツ少年団」かどうかは兎も角、確かにその類の団体であったと思います。第二次世界大戦後の早い時期から田舎町にもスポ少の類はあったのかも知れません。更に遡って戦前にも似たような団体はあったのやも知れません。スポ少の歴史に興味があるわけではありませんのでその事実関係は調べませんが、現在は田舎町でも、様々なスポーツ競技でスポーツ少年団のような組織があるようです。野球、サッカー、相撲、バスケットボール、水泳・・・・私はスポ少にはまるっきり興味・関心が無かったので、あまり列挙はできませんが、最近地元にも、かなりマイナーと思われる水泳の「飛び込み競技」にもそんな団体がある事を知りました。田舎町でも、多くのスポーツの競技にスポ少かそれに準ずる組織があるようです。

世間を見渡すと、スポ少に大きな価値を置いている保護者、大人が沢山います。少なくとも、テレビゲームよりは遥かに素晴らしい・・・と考える大人が多数派でしょう。
スポーツを通して体を鍛え、(社会の) ルールを学び、人間関係を学び、競争社会で生き残る逞しさを身に付け・・・・と、色々長所も謳われています。
 しかし私は、テレビゲームよりも、スポーツ少年団の活動のほうが素晴らしい、とは考えません。確かにテレビゲームは、体は鍛えられないでしょうし、頭もあまり鍛えられないでしょう。どちらかと言えば体も頭も退化するようなイメージです。社会性も身に付くとは期待できません。つまり、テレビゲームには、ネガティヴなイメージが付けられています。(体や頭が鍛えられたり、社会性が身に付くゲーム考案されているようですが・・・。)
それに対して、スポ少は社会的に認められているような風潮です。しかし、環境負荷と言う観点では、スポーツ少年団よりもテレビゲームのほうが遥かに環境負荷は小さいでしょう。テレビゲームも、ハードを作る時に資源を使い、ゲーム中は電力も消費します。それでもスポ少の活動の現状よりは遥かに環境負荷は小さいでしょう。現在のスポ少は、練習場まで車で送迎し、練習場等では大掛かりなナイター設備を使う事も珍しくありません。スポ少の活動に多くの資源とエネルギーが消費されているのです。
大会ともなると、父兄が自家用車を持ち寄って、若しくはバスをチャーターして遠くまで遠征する事も厭いません。そして、遠い場合、ホテルに宿泊して、ホテルで浪費します。基礎体力のトレーニングはするけれど、ホテルの階段はあまり使わず、専らエレベーターを使います。試合やトレーニングに行く為に多くのエネルギーを消費(浪費)するのです。
つまり、いわゆる「経済効果」も大きい点が、スポ少が社会から歓迎される一つの理由になっていることでしょう。大げさな言い方をすれば、スポ少も「経済成長主義」のオト落とし子とも言えましょう。
小さな少年の頃から、スポーツの為には、この手の資源とエネルギーの浪費行動が普通の事、いい事だと思い、罪悪感なく行動できる子供を育てているように感じます。

スポーツ選手をヒーロー視する子供も沢山います。スポ少に所属する子供たちの多くは、自分と同じ種目でプロになった人、若しくはトップクラスの選手にあこがれ、ヒーロー視します。しかし、スポーツが強い人が即、社会に貢献していると考えることには反対です。そんな風潮は頂けません。(現在、このような主張をすると、「ひねくれ者」と扱われるかと思いますが、そういう社会の風潮がおかしいと思います。)そうやってスポーツというものが絶対的な大きな価値のあるもの、社会の中心だというスポーツ偏重の社会が形成されてきました。そして、政治や災害、世界情勢のニュースを抑えて、プロスポーツやスポーツの国際大会のニュースがトップニュースとして扱われる事も一般的になっています。現代はスポーツ偏重社会と言えましょう。
現代の格差社会において、子供をスポ少に入れて子供のサポートが出来ない家庭も沢山あることでしょう。日本の子供の貧困率は16%を超えました。そういう意味では、スポ少に子供を所属させることの出来る家庭は、ある程度裕福ともいえるでしょう。そんなある程度以上に裕福な家庭の子供がスポーツ漬けの少年時代を過ごし、頭の中まで筋肉になっていくのです。
現在、スポ少のような団体は世界中で流行っているようですが、スポーツというゲームの世界に身を投じ、スポーツの勝負の世界が生活の中心となって大人になっていく子供が多いことに危惧を感じます。スポーツが単なる趣味の域を大きく逸脱していると感じます。
私の(ひねくれた)価値観からすれば、スポーツも囲碁や将棋もテレビゲームも同じゲームの範疇です。スポーツは、体が鍛えられる分「ましかな」位です。スポーツが他のゲームよりも気高いとは思えません。
スポーツの本来の姿は、人力の最大限の活用で、他の外部エネルギーは極力投入すべきではないと考えます。しかるに現在のスポーツはエネルギーをどんどん浪費しています。それだけでもスポーツの進んできた方向がおかしいと感じます。
 
学校での部活動のスポーツでもやり過ぎはよくないと感じますが、スポ少に所属し、スポーツ偏重の少年時代を過ごす少年が増え過ぎだと感じます。「塾とスポ少だけの放課後」という子供も増えてきたのではないでしょうか?危惧すべき状況だと感じます。子供はもっと自然に触れるべきですし、もっと社会問題にも対峙するべきです。子供をシビアな現実に対峙させるのは酷だと考える大人も沢山いるだろうし、私もそう感じる部分も小さくありません。しかし、そんな深刻な現実からずっと目を背け、スポーツに没頭するような大人が多数派だから、現代の深刻な問題はなかなか解決されないのでしょう。それどころか年々先送りされて肥大化しています。スポ少に子供を入れて、その活動に没頭している親の多くが3S政策に嵌っていると言えなくもないでしょう。スポ少で活躍して、社会人になれば企業戦士に育っていく・・・・そんなステレオタイプを理想としている親も多いと感じます。しかし、そんな人々がこんな住みにくい社会を作った一翼を担っているのです。現代社会は、多くの少年がスポ少の世界に没頭してられるような平和な社会ではないのです。
スポ少ブーム、スポ少奨励を好ましいとは考えません。逆に危惧を抱いております。

以上、一見ひねくれた見方でスポ少を論じさせて頂きましたが、根本に流れる考え方はここで主張した通りです。
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Comments 12

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でなしNo.146

塾とスポ少

塾とスポ少が子供の頃の思い出とは少し寂しいですね。
自然に触れる機会の方が絶対に大事ですし、バランスのとれた大人になると思います。
私も塾の講師をしたことがありますが、いろいろ悩ましい事も多かった記憶があります。
おかしい事はおかしいと言える勇気や自分で考える力は塾とスポ少では伸ばせません。
暗記と団体行動も重要だと思いますが、人間として大切なことはほかにも沢山あると思います。

2016/03/17 (Thu) 22:32

爽風上々

食料生産者以外の人々

最近面白い本を読みまして、ルース・ドフリースというアメリカの研究者のものなんですが、「食糧と人類」というものです。
その本によると2007年に世界人口のうちの過半数が都市生活者となったそうです。
わずか50年あまり前の20世紀中期にはそれが30%ほどだったのが大きな伸びです。
これは食料生産の効率化により生産者の必要数が減り続けているせいなのですが、そこから解放され都市に向かった人々は工業や商業、それからその他の産業に従事します。
スポーツや芸能といったまったく生産とは離れた人々も数多く存在できるのが現代の社会でもあります。
学校での成績が芳しくない人々にとってスポーツで収入を得るというのは魅力的でしょう。しかしほとんどの人にとってそれは夢でしか無いということは歴然としています。
まあ、このような時代というのもエネルギー漬けの食料生産が可能である間だけの存在ですから、また元の木阿弥の世界になるのでしょうが、過ぎてしまえば不思議な世界としか見えないのが現在の状態かもしれません。

2016/03/18 (Fri) 09:52

雑草Z

Re:塾とスポ少

>自然に触れる機会の方が絶対に大事ですし、バランスのとれた大人になると思います。

全くその通りだと思います。自然の摂理を体験的に体で覚える事は重要だと思います。

大学で体育会系の学生は「体制側」と言われてましたが、スポ少に入っている子供たちは、その予備軍に感じます。

ラテンアメリカの人々は過激な人が多く感じますが、政治に関しては彼等のように、もっと積極的に関心をもって、行動を起こして欲しいと思います。

でなしNo.146さん、早々のコメント、有難う御座います。

2016/03/19 (Sat) 05:14

雑草Z

Re:食料生産者以外の人々

    爽風上々さん

滞りがちになった当ブログを見捨てずに、早速のコメント有難う御座います。

>2007年に世界人口のうちの過半数が都市生活者となったそうです。 わずか50年あまり前の20世紀中期にはそれが30%ほどだったのが大きな伸びです。

何か怖い事ですね。極端な話、都市生活者は必要ありませんからね。これから反転して都市生活者は減っていくでしょう。

>このような時代というのもエネルギー漬けの食料生産が可能である間だけの存在ですから、また元の木阿弥の世界になるのでしょうが、過ぎてしまえば不思議な世界としか見えないのが現在の状態かもしれません。

仰る通りです。昨年末にアップした
【会津は物理的に独立国になり得るか?】
にも描いたように、あまり広くない自治体ごとに自給自足出来る事が、必要な時代になるでしょうね。食糧が持っている使用可能なエネルギー以上に輸送エネルギーを投入する事は馬鹿げています。

2016/03/19 (Sat) 05:26

爽風上々

記事趣旨に戻ってスポ少

前のコメントはちょっと記事の趣旨から飛びましたが、スポ少ということに戻ると、身体を鍛えたいとか、礼儀を身につけたいとかいった希望を持つ親も多いかと思います。
これは競技の種類により差はあるでしょう。野球やサッカーなどプロが盛んな競技ではプロへの希望を持つ子供も多いでしょうが、その他のスポーツはそこまで期待できないということもあるかもしれません。(それでもどんな競技でもトッププレイヤーはプロではなくてもある程度生活できるでしょう)

そんな環境ですのでそれらの団体には数々の問題点があるようです。もっとも自由に子供を遊ばせられる環境でもありませんので、それよりはスポ少に入れておいたほうがまだましということかもしれません。

まあ、現在のようなエネルギーバブル文明という時代のあだ花のようなものなのでしょう。その子どもたちの将来が食物を確保するだけで精一杯となれば、子供時代のスポーツの思い出は夢の様な記憶になるのかもしれません。

2016/03/19 (Sat) 14:48

雑草Z

Re:記事趣旨に戻ってスポ少

    爽風上々さん

更に記事の趣旨に沿ってのコメント有難う御座います。

>身体を鍛えたいとか、礼儀を身につけたいとかいった希望を持つ親も多いかと思います。

確かにそんな親は多いですね。喘息を直す為に水泳を始めさせたと言う親を複数知っています。


>それらの団体には数々の問題点があるようです。

スポ少の嫌らしい面はネットの話題にもなっていましたし、私も今回の記事でスポ少を批判しましたが、私のスポーツ好きな友人はスポ少に子供たちを入れ保護者会長なんかもしてかなり入れ込んでいましたが、子供たちが成人してスポ少を離れた後も保護者の付き合いは続いていて今日も先輩の還暦の祝いに行ってます。PTAの付き合いのように、子供が卒業しても一生付き合っていくスポ少の保護者も沢山いるようです(笑)それはそれでいいもんですね。

>もっとも自由に子供を遊ばせられる環境でもありませんので、それよりはスポ少に入れておいたほうがまだましということかもしれません。

確かに、昔のように子供を安心して自由に遊ばせられる環境は減って来ましたね。その方が問題かも知れません。
スポ少批判をしてきた私ですが、爽風上々さんのコメントに答えているうちに、風向きが変わって来ました。

>現在のようなエネルギーバブル文明という時代のあだ花のようなものなのでしょう。

が結論ですね。その通りだと思います。

2016/03/20 (Sun) 20:41

爽風上々

またちょっと脱線

また少し論旨が離れますが、
もう人生もあとわずかな私などはどこまで世界の変化を見られるか分かりませんが、今産まれたばかりの子供が幸運にも成長し老人に達することがあるとすると、彼らは自分たちの子供の頃の世界というものをどのように思い出すかということを想像したことがあります。
(このテーマでSF小説が書けないかと思ったこともありますが、文才が乏しく無理でした)

暗い電球が一つだけ点った部屋で貧しい食事をしながら、「おじいちゃんの小さな頃はスポーツというものがあって、ボールを投げたり走ったりしたものだ」と話すと、孫達は「またおじいちゃんの昔話が始まった。そんな無駄なことできるわけないじゃない」とか言って相手にしないでしょう。
「おじいちゃんの小さな頃には夜に電球を何万個も点けて昼間のように明るくしたものだ」などは孫もまったく馬鹿にしきった反応をするかもしれません。

今生まれる子どもたちがそのような老人になるまで約70年、無事にその日を迎えられるかどうかかなり怪しいものです。

2016/03/21 (Mon) 05:48

雑草Z

Re:またちょっと脱線

>今産まれたばかりの子供が幸運にも成長し老人に達することがあるとすると、

非常に重い言葉です。成長の限界による文明崩壊の時期に関して、爽風上々さんは私ほど、早急とは考えていないと思っておりましたが、そうではなかったようですね。今の子供の世代に崩壊が始まる可能性が高いと考えていらっしゃいますね。縮小社会への以降の切迫性を再認識致しました。

>今生まれる子どもたちがそのような老人になるまで約70年、無事にその日を迎えられるかどうかかなり怪しいものです。

私も同様に予測しております。


私はここのところフィクションの小説に興味関心が湧かず、読もうと思っても途中で止めていましたが、3年ほど前に石川英輔氏の『2050年は江戸時代』を久々に面白く読めました。内容が経済成長主義からの脱却とスローランディングの成功例の提示だったからです。多くの人から「暗い未来像で若者に悪影響だ」と批判されたようですが、私はこれでもかなり理想的なランディングで、この程度のスローランディングは無理で、もっともっとハードなランディングになるであろうと考えています。

>暗い電球が一つだけ点った部屋で貧しい食事をしながら、「おじいちゃんの小さな頃はスポーツというものがあって、ボールを投げたり走ったりしたものだ」と話すと、孫達は「またおじいちゃんの昔話が始まった。そんな無駄なことできるわけないじゃない」とか言って相手にしないでしょう。
>「おじいちゃんの小さな頃には夜に電球を何万個も点けて昼間のように明るくしたものだ」などは孫もまったく馬鹿にしきった反応をするかもしれません。

興味深く読ませて戴きました。「読ませどころ」のある文章になりそうですね。最高に上手くスローランディングしてもこんな感じでしょうか?

>このテーマでSF小説が書けないかと思ったこともありますが、

今の時代に最も必要な未来予測SF小説だと思います。
是非とも書いて世に出して欲しいと願います。書くべきだと思います。期待が高まります。私も文章に自信はありませんが、同じテーマで書いてみたいところです。

2016/03/21 (Mon) 11:44

爽風上々

文才の欠如

50年後の世界というSF小説は場面や登場人物まで考え、幾つかのエピソードも浮かんできたのですが、読ませる文章を書くという文才は持ちあわせておらず、諦めました。
このアイディアは差し上げますのでどうか立派な文章にしてやってください。

ちなみに、幾つかのエピソードのうちには、「小川を利用する小規模水力発電で部落の各家庭にわずかずつの電力を供給するが、渇水期には停電が相次ぎ、管理担当者の主人公が苦境にたつ」とか、「村一番の大金持ちが金にあかせて最後の自動車を乗り回し、子供がはねられる」とか、「真っ暗な家の中での夕食で爺さんが昔話で神戸などのイルミネーションの話をするが孫も子供も相手にしない」といったものを考えていました。

しかし、細かい人間関係などを会話でリアリズムの色付けをするというのが私の最も苦手とするところで、何とも残念です。

2016/03/21 (Mon) 16:12

雑草Z

Re:文才の欠如

随分具体的な場面や登場人物、エピソードまで考えていらっしゃったのですね。
 ブログの記事も量産されている爽風上々さんですので、文章はすらすら書けますね。(このブログの更新を見て頂ければ分かる通り、当方は愚図です。)

>細かい人間関係などを会話でリアリズムの色付けをするというのが私の最も苦手とするところ

なるほど、それは大変な作業かも知れません。それなら、爺さんなり孫なり、一人の人間を主人公としてその人の目を通した「主観」で書くのはどうでしょうか?若しくは、あんまり「小説然」として書かなければいいかも知れません。


今の時代に非常に必要な未来予測SF小説だと確信致しました。是非とも世に出したいですね。

>このアイディアは差し上げますのでどうか立派な文章にしてやってください。

有難う御座います。愚図な私ではいつになるか、完成出来るやも分かりませんが、・・・それ以前に手を付けられるかも分かりませんが・・考えてみようかと思います。「その気」が湧いてきました。爽風上々さんも是非再度御検討下さい。

2016/03/22 (Tue) 06:39

guyver1092

いつから

 何の雑誌か忘れましたが、地域に古流の武術が残っているのは、明治維新の後、現代まで地域のスポーツの団体があって、少年たちも習っていたからだと言うのを読んだことがあります。
 スポーツの中には資源浪費型のものも多いとは思いますが(スキー、ゴルフの類)、全てではありませんから、よく選んですればよいかと思います。
 また、定常社会になってからのことではありますが、ある程度の贅沢は必要だと考えています。理由は、自然の揺らぎにより食料が不足する場合もあり、その時に切り詰める余裕を贅沢に当てておき、不作のときに贅沢分を充てればよいと思います。
 全ての中心にスポーツを置くのは、好ましいことではないと私は考えます。理由は、この延長にはドーピングのようなインチキがあるからです。ほどほどの贅沢な遊びとしておくのが最良と考えます。

2016/03/29 (Tue) 21:00

雑草Z

Re:いつから

>地域に古流の武術が残っているのは、明治維新の後、現代まで地域のスポーツの団体があって、少年たちも習っていたからだと


柔道、剣道、弓道、空手・・・など戦前からある感じでしたが、なるほど、明治維新からでしたか!!

>定常社会になってからのことではありますが、ある程度の贅沢は必要だと考えています。理由は、自然の揺らぎにより食料が不足する場合もあり、その時に切り詰める余裕を贅沢に当てておき、不作のときに贅沢分を充てればよいと思います。

非常に先見の明のある深い案ですね。賛同致します。

スキー、ゴルフのような資源浪費型でないスポーツでも、本文の記事に描いたスポ少のような活動形態では、資源浪費になるでしょう。

>ほどほどの贅沢な遊びとしておくのが最良

スポーツは「贅沢な遊び」と言う範疇に入れる事は非常に的確だと思います。なるほどです!これからは私も「スポーツは贅沢な遊びの一種」と位置づけたいと思います。アイディア有難う御座います。

2016/03/29 (Tue) 23:10
☘雑草Z☘
Admin: ☘雑草Z☘
無理に経済成長させようとするから無理に沢山働かなければなりません。あくせく働いて不要なものを生産して破局に向かっているのです。不要な経済や生産を縮小して、少ない労働時間で質素にゆったり暮らしましょうよ!「経済成長」はその定義からも明らかなように実態は「経済膨張」。20世紀に巨大化したカルト。
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